東洋思想の非二元性

西洋文化といえば、キリスト教やユダヤ教の伝統文化の継承である。そのキリスト教やユダヤ教の「二元性」に由来する、数々の思想的な闘争は西洋の歴史を鑑みた上で顕著に観察できる。キリスト教には、二分性から来る短所が著しく見え、それが今後の人間社会にとって何らかの影響を少なからず与える懸念を私は感じる。キリスト教はこの「二元性」が与える影響や懸念を自覚して、包容性を養わなければならない。

二元性から生じる排他性・自己中心性などは、人間社会にとって好まれざる性格である。この二元性を超越して対立要素を包括するとあれば話は別だが、この対立構造に囚われている限りは前進を生むことはない。キリスト教では、「創造者」と「被創造者」を明確に区別する。創造者の命令は絶対であるが故、反駁することは許されない。二元論を前提とすると、創造者と被創造者に限らずに「私と他人」や「白と黒」や「敵と味方」などあらゆる方面に対立が可能となる。すると、そこから無限の対立が生じてしまう。ひとつの枝葉が引っかかると、そこから幾十もの葉っぱが纏わりつき、自然と木の根元を忘れるようなものである。二分性の性質は、そのようになるのが常である。

さて、次は西洋的な二分性と対比される、「東洋的な非二元性」を一通り述べたい。その所懐を語る前提として、西洋的な二分性の懸念を前述したが、そのメリットについても多少は論じたいと思う。歴史的な観点から俯瞰すると、科学が西洋に発達して、東洋は比較的停滞しがちだった。科学というものは、第一に自分と自分に対するものを明確に区別する。科学には対境がいる。科学は自分に対する客観体がなくてはならない。

知性の作用は、この二元性の上に成り立っている。主体と客体がない知性は皆無である。知性はどうしても、この二元性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちであり、薄っぺらになってしまう。これに対して情動的なものは非二元性、つまり全一的であって人間を根本から動かす力を持っている。人間の行動においては知性より情動が優先され、その後に反省がでる。知性が情動を支配するようになるのは、知性がその本質から離れて、その底の情動と一体になる時である。

それが一体になると、「知性が某の杖となって発達を阻害してしまったり」、「知性を差し置いて情動的に行動してしまった結果、あらぬ結果を招く」ような不都合が少なくなる。芸術においてもそれは同様であり、東洋的な非二元性が加わると、人間の生活そのものが知性と一体となって表現される。人間の挙動一つ一つがことごとく美点となり、芸術的に美しいものとなる。このような東洋的な非二元性に、この先の人間社会に美点を見出す発見がなされるように、私は願っている。「物事の分け方」というものは、人間の恣意的な選択である。その土台に「分ける前の共通の世界」が存在することを忘れてはならない。


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