言葉にならない美しさ

渡辺歩監督のアニメ映画「海獣の子供」のキャッチフレーズは「大切なことは言葉にならない」である。そのフレーズを象徴するかのように、映画の脚本や演出は言語の直接的な表現が明確でなく、殆どが抽象的なメタファーで占められている。

映画の大衆性と芸術性という二つのバランスの均衡において、この映画は偏っているかもしれない。しかし、キャラクターの口から淡々と語られる形而上学的な台詞は、観客を深い哲学的思考の深淵へと落とし込む。その省かれた言語的な表現を埋め合わせるかのように、久石譲の音楽がダイナミックな映像表現と調和する。

この映画の象徴である詩的な関節表現か、単純な直接表現か、という二つの表現の形式は好みが分かれる所だが、私は前者の間接表現が個人的な嗜好と合致する。この記事の題名は「言葉にならない美しさ」であるが、その美しさを代表する芸術表現は、「音楽」や「絵画」ではないだろうか。音楽は「物自体」を表現する最も高尚な芸術であるとショーペンハウアーは言った。何百年と代々聴き継がれてきたクラシックの名曲は言葉に得がたいものがある。

言語を媒体とせずに世界にアクセス出来るかという問いは長年の哲学上の難題だが、私は言語を介さずに、直接的な感性に訴えかける「美しさ」は存在すると信じている。人間以外の自然や動物に、言語という概念が存在するかは謎である。ただ、クジラやイルカは人間の五感では理解できない超音波でコミュニケーションを計っているという一説もある。つまり、言語というものは勝手に人間が世界にラベルのように貼り付けた概念ではないか。

何より私は、人間の科学や知性で世界の全てを推し量ろうとする行為に傲慢を感じる。人間の理解は世界に対して一面的に過ぎない。宇宙の半分以上は人知を越えたダークマターで満たされているという。何であれ、「自分自身がそうであるもの以上の見方」は出来ない。人間は地球上で最も知能が高い生物とされているが、如何に高い知能を駆使しようと、人間というちっぽけな存在以上の理解は不可能だ。

広大な宇宙の存在に比べれば、人間など無に等しい粒子のようなもの。それは私の想像力を凌駕し、国家や町や人間関係など如何なる意味を持つのであろうか。それは逆に小さなものを辿っていっても同様であり、微小な微生物や身体を構成する原子までの分解の想像を試みるならば、すぐに想像力の壁に突き当たるだろう。人間は何処までも中途半端な存在である。人間の一面的な知性や言語に囚われず原点に立ち返り、自然的な視点で世界を俯瞰するべきである。そのような人知を越えたメカニズムで調和される宇宙にとって、人間的な言語は及ばないと私は感じる。

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