ORANGE RANGEブーム当時に思ったこと振り返り
皆さんは、ORANGE RANGE(オレンジレンジ)を知っていますか。
略して「レンジ」と呼ばれる、沖縄出身のオルタナティブバンドです。2000年代前半の邦楽ポップスで、数々の代表曲を生み出し、名を広げた5人組のバンドです。
2001年に結成、2003年6月4日にメジャーデビューして以来、現在も活動しています。今年でデビュー20周年になります。
レンジは2003年7月16日に発売されたシングル曲『上海ハニー』のヒットがきっかけで、バンドの知名度が上がり、2003年から2006年まで数々の代表曲を発表して、3年間のブームを起こしました。その期間を邦楽ファンの間では、「レンジブーム」と呼ばれています。特に2004年、2005年のレンジは、日本全国の人気で「全盛期」を起こしました。
ブリは当時のブームを見ていました。当時は海外に住んでいました。日本に一時帰国した時、どこでもレンジの曲が流れて、音楽番組はレンジで盛り上がりました。新曲が出るたび、タイアップが付き、音楽雑誌も、友人もレンジ一色でした。借りたレンジのCDを聞いて、推し愛の熱が上がりました。ブリにとって、初めて大好きになったバンドです。
ブリが日本に帰ってきた時、レンジブームは落ち着きました。前よりバンドの露出が減り、新曲が出ても、プロモーションの期間が短くなりました。レンジは次第に落ち着いた雰囲気の楽曲を作り、他の新しいバンドたちの台頭が始まり、ブームは終わりました。
この記事では、レンジブームを見てきたブリの楽しかったこと、辛かったことをまとめてみました。レンジが名の知れたバンドになった経緯を簡単につづります。ブリにとって、音楽を聞くきっかけになった少年時代のことも、書きました。
○沖縄ブームとともに注目されたバンド
レンジの前身は、中学時代にバンド活動をしたところから始まりました。リーダー兼ギタリストであるNAOTO(ナオト)、ドラムのKATCHAN(カッチャン)を中心に結成されました。バンドの初めてのステージは、1990年代にヒットした、邦楽ロックバンドGLAY(グレイ)の楽曲を、中学の卒業パーティーで演奏しました。中学卒業後はバンドを解散させ、ナオトとカッチャンは、同じ高校に行きました。高校で出会った、ベーシストのYOH(ヨウ)と、ボーカリストのHIROKI(ヒロキ)を誘い、再びバンド活動を始めました。そして、ヨウの実弟であるボーカリストのRYO(リョウ)が加わり、別の高校にいたボーカリストのYAMATO(ヤマト)も入りました。
2001年に、ボーカリスト3人、ギタリスト、ベーシスト、ドラマーの6人組バンドとして、高校生だったレンジは本格的に活動開始しました。
レンジは、ライブハウスを回り、活動していました。彼らが過ごす、沖縄市はかつて「コザ」と呼ばれた、アメリカ文化が漂う街でした。メンバーの好きなロックバンドのコピー曲から始め、オリジナル曲を作るようになりました。オリジナル曲を収録したミニアルバムを発売して、インディーズデビューしました。
2000年に入った頃、日本は沖縄サミットをきっかけに、沖縄への関心が高まっていました。沖縄を扱った作品、沖縄で活動しているアーティストたちが注目されました。レンジの先輩バンドである、モンゴル800、HYはヒットしていました。新人アーティストを探していたレコード会社のスタッフは、ライブ動員を増やしていたレンジを誘って、彼らのメジャーデビューを決めました。うさんくさいと思ったメンバー達は、誘いに同意して、邦楽のメジャーシーンへ踏み出しました。
ブリは、レンジを通して、沖縄を知るようになりました。観光にも行って、大好きな場所になりました。
○アイドル路線で大ブーム
2003年6月4日、インディーズ時代のオリジナル曲だった『キリキリマイ』で、メジャーデビューしました。レンジはラップロック作風のバンドとして、現れました。ナオトは、ただギターロックを演奏するバンドではなく、アイドルグループとして見せる路線を考えました。ヒロキとヤマトとカッチャンは大賛成でした。一方、ロック路線を好む、ヨウとリョウはその考えに反対していましたが、次第になじんでいきました。
アイドルグループ路線を見せた、2枚目のシングル曲『上海ハニー』は、彼らの初ヒット曲になりました。夏をテーマにした楽曲である、『上海ハニー』、『ロコローション』、『お願い!セニョリータ』、『イケナイ太陽』は、レンジの代表曲として知られました。少年少女の邦楽ファンを広く獲得して、知名度が拡大していきました。学生たちは、レンジとともに思い出を重ねていきました。当時のブリ少女もその一人でした。音楽を聞いている時間が、本当に楽しいものだと思い始めました。
少年少女向けと思われたレンジのイメージを変えたヒット曲が生まれました。2004年のシングル曲『花』は、オーケストラとリズム&ブルースを混ぜた、バラード楽曲です。幅広い世代にヒットして、老若男女問わず、レンジの人気が上がりました。『キズナ』『SAYONARA』『瞳の先に』といったバラード代表曲で、はしゃぐレンジのイメージを変えました。
レンジは、幅広いジャンルの作風で多くの邦楽ファンを驚かせました。レンジより長く活動していた1990年代のバンドでも、幅広いジャンルを展開したバンドたちはいました。レンジは、ポップスロックの音を更新したのです。
ボーカリスト3人による歌唱に乗せて、キャッチーなメロディーで、数々の音楽作風を演奏するバンドとして、名を広げました。楽曲は、ヒップホップロック作風だけではなく、ハードロック、テクノ、レゲエ、沖縄民謡、ディスコ、ファンク、バラードなど、数々の音楽作風を作り出しました。それは、「オルタナティブ」なる音楽ジャンルを聞かせました。ブリにとって、「バンドはボーカリスト1人で歌い、ギターロック作風をただ奏でる」というイメージを変えました。幅広いジャンルを展開する音楽性は、後の若いバンドたちに影響を与えました。
「個性的な歌声」「幅広いジャンル展開」「独特な世界観」、これらの音楽作風は、今のブリに通じる、音楽的嗜好を作り出しました。
○ブームの終わりと転換点
レンジは沖縄だけではなく、日本全国を巻きこむブームを起こしました。少年少女だけではなく、大人の邦楽ファンも聞くバンドになりました。CMや映画主題歌のタイアップが付いて、楽曲は連続ヒットしました。200万枚も売れたアルバムCDを記録しました。邦楽界で、シングルCD9作連続1位記録、ミリオンセラー、ゴールドディスク大賞を獲得して、あのGLAYとほぼ似た業績を持ちました。バンド結成から3年目、メンバー達は20代前半で、2000年代前半の邦楽を代表するバンドになりました。ブリ少女は、これは後に残る出来事だと確信しました。
しかし、レンジは次第に、大きくなったバンドの存在について、不安を抱えるようになりました。メンバーだけではなく、多くのスタッフたちが関わるプロジェクトになり、もはやメンバー達の意図ではどうにもできない状況になってしまいました。レンジは、若さの勢いで甘えていたことを実感しました。
2005年にカッチャンが違う進路に行きたいために、バンドを脱退しました。ここから、レンジは現在の5人体制のバンドになりました。ファンにとって、レンジ離れを起こす出来事でした。
アルバム作品では、レンジがやりたい音楽と、邦楽ファンが求めているヒット路線と、ずれてきてしまいました。レンジの活躍に対して、マジメな邦楽ファンからは「単なる過去の音楽の焼き直し」、「日本を代表するバンドとして恥ずかしい技術力」、「GLAYと一緒にしないでほしい」などと、否定的な意見がインターネット上で展開されました。
レンジブームのなかで、育ってきた他のオルタナティブバンドたち、UVERworld、サカナクション、凛として時雨、ONE OK ROCKなども知名度を高めてきました。そして、2000年代半ばには、邦楽界ではCDのミリオンセラーが生まれにくくなり、デジタル配信が生まれました。そして、音楽不況が始まってきました。レンジの力でも変えられない、環境の変化は、3年に渡るレンジブームを終わらせました。
ブリは推しアーティストのブームの終わりは何回も見てきましたが、周りのファンが離れていくことがさびしかったです。インターネット上の否定的意見は、ブリ少女の心に傷を残しました。物事の終わりは必ず来るものです。
レンジは、バンドの方向性を見失う前に、かつて自分たちが生まれた故郷に戻りたい気持ちがわきました。2010年、所属していたレコード会社から離れて、沖縄に戻り、インディーズ活動に戻りました。
ヤマトとリョウは、レンジの業績が称賛されるなかで、疑問点と心境を語っていました。お金のために音楽を作る動機と、レンジの音楽に対する考えとは、違うのです。
○故郷で原点回帰と挑戦
メジャーシーンから降り、沖縄に戻ったレンジは、バンドの作品を表現する、自主レーベルを設立しました。かつてのブームより、楽曲のタイアップは減りました。でも、バンド結成時から行っていたライブ活動を続けました。バンド結成から10年目の転換点となりました。
毎年、ロックフェスに積極的に参加し続けました。2014年にバンド活動で初めて、台湾、韓国、香港でのアジアツアーを開催しました。沖縄を拠点にした活動に変え、再出発をしたレンジは、メジャーシーンでは表現できなかった、音楽の意欲を爆発させました。
ブリは、いろんな事情、他のバンドへの盛り上がりがあって、しばらくレンジを聞いていませんでした。音楽番組に出た、この頃のレンジを再び聞いて驚きました。アルバムを聞いて、相変わらず、コミカルな世界観を展開していました。沖縄、友情、人生のマイペース、自然との調和など、気楽な世界観を見せました。一方で、コミカルな比喩表現で、社会風刺を描いた楽曲も作り出しました。ブームの終わり頃にも、戦争、自然破壊、日本人独特の思考、社会の暗部など、社会風刺を遠回しに描いたものがありました。メジャーシーンの楽曲より、禁忌に若干踏みこんだテーマを扱っていて、レンジは意外な一面を見ました。少年のレンジから、大人のレンジへ変わった様子を感じました。
レンジは、音楽のこだわりに執着せず、自由な音楽的発想を表現しました。かつてギターロック中心だった過去の楽曲より、テクノ作風を軸にした楽曲が増えました。音を最低限に減らした作風を表現したり、映像とともに表現したコミカルな楽曲を出しました。
制作環境と楽曲の雰囲気を変えても、過去の名曲は決して封印しません。名曲を通して、多くのファンに知られた感謝をこめて、ライブで歌い続けています。レンジブームを知らない、今日の少年少女にも、SNS上でレンジの名曲が再び注目されています。
レンジはテレビ出演が減っても、音楽への姿勢は変わりません。多様化するアーティストの運営は、バンド自らが責任を持ち、音楽活動する方向に変わっていくと思いました。
○変わらない笑顔と故郷愛
ブリは、今日までレンジが活動を続けるとは想像できませんでした。ブームの終わりでバンドが終わると思っていました。20年も道が続くとは思いませんでした。よく考えると、レンジの自由な音楽的発想が、バンドを続けていられると思いました。故郷である、沖縄の環境は、彼らの生活と音楽活動に、活力を与えているのです。
レンジの歴代アルバムを全て聞いた後、20年経っても、変わらないことに気づきました。それは「笑顔」と「沖縄」です。
「笑顔」は世界共通のしぐさで、素晴らしい力を持っています。メンバーと周りの人々をつなぐものです。彼らの活動のなかで、邦楽界も、社会も変わっていきましたが、どんななかでも、元気をくれる「笑顔」は癒やしです。
レンジを知るためには、沖縄への理解は必要です。実はレンジの楽曲には、一般的な表現で、沖縄文化と精神を描いたものがあるからです。レンジにとって、沖縄は故郷であり、彼らの個性の一部だからです。大人のブリは、次第にレンジを通した、沖縄の背景に気づいていきました。
リーダーであるナオトにとって、沖縄は大切な場所だと語っていました。
ブリの少年時代に染みこんだレンジの音楽は、大人になった今でも、音楽的嗜好として変わりません。何かに迷った時、レンジの歌詞や楽曲は元気をくれます。ブリにとって、邦楽ロックバンドの興味の一歩となった、大切な推しバンドです。
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