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アマゾンプライムお薦めビデオ③ 127 :分かりやすくてもダメ、訳が分からなくてもダメ、ましてや思わせぶりでもダメ、その絶妙な境界線を捉えて芸術としての映画であり芸術論としての映画『テオレマ』

一昔前であれば、名画座でもほとんどかかることのなかった映画が配信で気軽に見れるようになったというのは恐ろしいというか、何かが変わったとしか言いようがない。今回紹介するのは、いわゆる常識のラインを平気で越えるという意味であまり人にはお勧めできないが、しかし、それでも魅力的な名監督であるイタリアの鬼才、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の傑作『テオレマ』である。

この作品もストーリーを楽しむタイプの映画ではないので、ある程度は言ってしまってもいいと思うが、ある中の上の階級の家庭にある男が現れ、同居するところから始まる。恐らく息子の友人なのだろうが、それもはっきりとは描かれない。そしてこの男(というか青年)、とにかく性的に魅力的、というか魅惑的なのである。家族全員が(女も男も家政婦も)、皆、何らかの形で彼と関係を持つ。しかしある日突然手紙が来て、彼は突然その家を去ることになる。そして残された家族も、それぞれの生き方をするようになる、という話である。

「なんのこっちゃ」と思うかもしれないが、そもそもお話とは、いわゆる昔話に代表される「寓話」とはそんなものなのである。そこには確かにある種のメッセージや教訓はあるかもしれない。そのメッセージや教訓性が残されたものが今の昔話であり寓話なのだが、もともとはそうではない。寓話には、訳の分からなさ、教訓という善悪では割り切れないものが必ず残されているのである。そう、逆に言えば、近代社会、現代社会というものはそれを切り捨てることで成り立ってきた社会である。その意味で、この映画は近代社会、現代社会に対する批判ともなっている。今の時代、我々はある与えられた社会的地位を演じているだけなのではないか、という批判である。本来人はもっと開かれているはずである。しかし、自由と平等という一見もっともな名のもとに、かえって、我々現代人は、自分自身を縛り付けてしまっているのではないか、という批判である。

しかし、このような現代社会に対する批判を読み取ることが、決してこの映画の感傷の在り方としては正解ではない。なぜなら、この映画はもっとアナーキーであり、そのようなメッセージ性自体をも否定するものであるのだから。その意味で、この映画は訳が分からないのである。しかし、それは決して思わせぶりな訳の分からなさではない、本当に、真の意味での訳の分からなさなのである。

映画中、ある人物が「絵画」というものを通して芸術論的なものを語る場面がある。しかし、彼が語ろうとすればするほど、それはいわゆるハイカルチャー、中の上の階級の人たちに向けての芸術論となってしまう。そうではなく、本来、寓話自体が訳の分からないものであり、その意味で大衆にとっての芸術だったのである。大衆は何もメッセージを求めたり、意味を求めたり、教訓を求めたりして、寓話を楽しむのではない。そこにある、混沌さ、ごった煮感、そしてある種のエロティシズムにもつながる高揚感を期待して、寓話を楽しむのである。そしてこの映画は、まさにその意味で現代の寓話である。

ととにかく、この映画、一度見てくれ、としか言いようがない。後は見た上で皆さんで判断してほしい。

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