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アマゾンプライムお薦めビデオ③ 131 :非常識だが美しく儚い。非常識だからこそおかしくも残酷。キム・ギドク監督作品『弓』

晩年はいわゆるMe too運動の影響で韓国を追放され、異国にてコロナのために亡くなってしまったキム・ギドク監督だが、犯した罪は罪として問うていく必要はあるが、作品は作品として、その罪に引っ張られずに見てもよいだろう。

今回紹介する作品『弓』は恐らくキム・ギドク監督が一番油に乗っていた2000年代のちょうど中盤、2005年に作られた映画である。ストーリーについては触れないが、登場人物について簡単に触れれば、長年海の上で暮らしている老人と少女(その船を沖合の魚釣り場として貸し出すことで生計を立てているらしい)、そしてそこに客としてやってくる若い男が主な登場人物である。そしてこの老人、弓の名手でもある。韓国の伝統文化について詳しくはないが、「弓」には武器としての弓と、楽器を演奏するときの「弓」があるように、ここでの「弓」もその二つの意味を持っている。というか武器としての弓が同時に楽器としての弓でもある。

まあ、この作品、というかキム・ギドク監督の作品はすべてそうなのだが、美しくも儚く、またあり得ないというか、非常識というか、ちょっとぶっ飛んでいる作品である。しかし、そのぶっ飛び方が決して音楽で言うところのパンクの方向ではない。むしろクラシック寄りであり(実際、この映画の音楽も、まさに「弓」というタイトルが示すように、弦楽器による美しい音色である)その意味ではクラシック寄りの(つまりはテクノ寄りではない)現代音楽的である。以前、パゾリーニ監督の『テオレマ』を紹介した時に「寓話」の話をしたが、キム・ギドク監督も一種の寓話作家と言っていいであろう。「寓話」が伝えるのは、決して骨抜きされてしまった昔ばなし、おとぎ話のような分かりやすくかつ教訓的なメッセージではなく、むしろ訳の分からなさ、のほうなのである。

この世界には訳の分からないこと、不条理なこと、運命や奇跡や悲劇としか呼べないものがある。しかし、現代社会においてはそれはなかなか表には出てこない。例えば戦争や大規模な自然災害を体験した人にとってはそれは不条理なことであり、悲劇であり、また運命であったというしかないであろう。しかし、それが事件や事故として報道される際にはその分析が行われる。理由探し、原因探しである。理由や原因が分かれば人は安心できるからである。しかし、その安心はそのニュースをニュースとして聞いている(見ている)人たちにとっての安心であり、被災者本人、さらには亡くなられた人たちにとっての安心ではない。

キム・ギドクという監督は、そこを突いてくる監督である。映画と言う武器であり楽器をもって、そこを突いてくる監督である。刺さるという言葉があり、これも「弓」を連想させるが、まさにその部分に矢を打ち込んでくるのである。惜しむらくはそれを映画の世界だけでやって欲しかったという点である。冒頭にも述べたことだが、性加害という形で、彼は加害者となった。彼の映画を映画として見た上で我々が彼に投げかける言葉は、「言ってることとやっていることが違うんじゃないの?」という言葉だろう。これは恐らく彼にとってはかなりきつい言葉であろう。彼自身に矢を打ち込まれているのだから。しかし、その矢を受けた上で、彼がどう再起し再生していくのかを是非見てみたかった。彼自身をでなく、その上で彼が作る映画を、である。



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