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米櫃を覗く〜生きるとはいとたのし〜

奇人変人という言葉がある。
辞書で調べて見るとこう書かれていた。
「性格、言動などが普通の人とは異なっている人」

うーむ。
では、普通とはなんぞや?とこれまた辞書で調べた。
「世間にざらにあり、何ら変わった所が見られないこと」
「平均 水準として、その傾きが見られること」
「一般にそう考えられていること」
「同類の多くがそうであるのと同じ程度」

これはどう考えても普通ってつまんねー、としか思えんわな。

僕は至って普通の人間ですよハハハ、なんて世間話のなかで発言する際に、「僕は世間にざらにあり、何ら変わった所が見られない人ですよ…」とは
自虐満開に受け取られかねないので言い辛いし、もしも誰かに
「世間にざらにあり、何ら変わった所が見られない人だね、チミは…」
なんてことを言ったりすると明らかにdisってると受け取られても致し方なしである。

ところで、奇人変人での有名どころといえば、畠山箕山を皆様はご存知であろうか?
遊郭百科事典『色道大鏡』全18巻を完成させた、生粋のエロリストである。

13歳の時に初めて足を踏み入れた遊郭ですっかり遊郭のとりことなり、
親が遺してくれた財産を10年も経たずに食いつぶし、太鼓持ちにまで身を持ち崩すもなんとかやりくりしながら、けっして遊郭通いあきらめず、遊郭のエキスパートとなった箕山。

『色道大鏡』の中で「総じてものを飾ったりつくろったりするのは、初心者や田舎者のすることだよ」と若さゆえの油絵のようなギトギトしたPlayではなく、老年に差しかかり、自ずと水流るる如く、水彩画のようなエロのその先へ達観したようなこと言ってたりします。

また、野暮→粋への移り変わりを説明した色道の極意なども語っており、結果、エロからの大衆文化論、しいてはエロ道とはバタイユやフロイトの説いた哲学、さては思考とも考えようによっちゃまぁ、同じよな、的な非常に用意周到にエロをすり替えるような論理も見受けられちょっと勘違いしそうになりますが、まぁエロはエロやで。しかしエロいでんな〜、な畠山箕山さんであります。

他にも日本には司馬江漢や天愚孔平などの偉大なる奇人変人がいるので、各々調べるも楽し。

そして奇人変人について海外にも目を向けてみると、やはり私は、ディオゲネス・ラエルティオスが真っ先に浮かぶ。ローマ時代の哲学者たち、ソクラテス、プラトン、アリストテレス等、奇人の宝庫ではありますが、ディオゲネスがグンバツに飛び抜けているのでありゃんす。

ディオゲネスは古代ギリシャの哲学者でプラトンとも交流があったらしい。
類は友を呼ぶですな。
ディオゲネスは大変な皮肉屋で、みんなに嫌われ殴られホームレスになり酒樽に住んでいたこともあるという。

また、ディオゲネスは影響を受けた人物として「アンティステネス、犬」と言っている。ちなみにアンティステネスとはディオゲネスの所属する会派であるキュニコス派(犬儒学派)の祖である。そして犬はイヌである。わんわんのイヌです。そしてディオゲネスの墓碑は犬の像であったと言われており、死因も犬に噛みつかれて死んだという説まであるのである。

残念ながら、ディオゲネスの生まれた西暦紀元前413年は、辰(たつ)年であり戌(いぬ)年であれば最高だったのになー。

西暦紀元前419年であれは戌(いぬ)年だったのに…いやまてよ…この時代の出生年なんて記録されててもどーせ適当であろう。そーだそ~に違いない。実は419年生まれで「ほんまは419年生まれですけど、父親が両替商っちゅう、割とヤバメな仕事してまして、地方やらなんやら高飛びして…ってちゃうちゃうちゃいまっせ!転勤ですわ。そんな根無し草的な?家庭の事情やいろいろめんどいことがございまして。んで413年生まれいうてますねんケケケ」の可能性も…ありやな。

そんなディオゲネスですが、衣食住にはまったく関心がなかったらしい。
住処や寝床はどこでもよく、着古したコートのなかに身体を包んで眠ったりしていた。

あるときは、広場でオナニーに耽りながら、「ああ、お腹もこんな風に、こすれば満足できたらいいのになあ」と言っていたらしい…

またあるときは、夏に熱い砂の上をころげまわったり、冬に雪をかぶった彫像を抱きかかえたりし、自己鍛錬したという。

そんでもって夢判断する占い師やそれにくっついている連中、または名声や富を鼻にかけている人たちに対して「人間ほど愚かな者はないように思われる」と言ってみたり「おおい!人間どもよ」と叫び、人びとが集まって来たら来たで、杖を振り上げて「ぼくが呼んだのは人間だ、がらくたなんぞではない」と言ってみたり。

ある時には、アレクサンドロス大王が彼の前に立ち「余は、大王のアレクサンドロスだ」と名乗ると「俺は、犬のディオゲネスだ」と逆ギレ、何故犬と呼ばれているのか、と訊かれたら際には、「ものを与えてくれる人たちには尾をふり、与えてくれない人たちには吠えたて、悪者どもには咬みつくからだ」と吠えたらしい…

奇行がひどいが、偉大な哲学者でよかったですね、と言ってあげたい。

このように古今東西に奇人変人はいるわけだが、私が育った地元にも奇人と呼ばざるを得ないご老人がいたことを最後に書こう。

この老人は皆から「やっさん」と呼ばれていた。歳は60代後半〜70代と思われる。やっさんは建築会社の飯場の前にヨレヨレのランニングシャツと白いステテコにつっかけサンダルといういつ見ても同じ格好で座り込み、昼の日中から酒を呑み寝っ転がってたりする。

土曜日なんかは学校が昼で終わるので、飯場の前を通るといつもやっさんが酒を呑んでいる。やっさんは私達子供に呂律が回らない口調で「なんみとんねん!(何を見てるんだい)」「しゃーっそ!(しばいちゃうぞ)」と威嚇したり、ある時は「なんなくれや?(何かくれませんか)」「ばばでた(うんこ漏らしちゃった)」といってきたり、またある時は学校帰りの私達に「がっこいっとん(ちゃんと学校にいってるのかな)」といってきたり「あーしっこ(おしっこがしたいぞ)」と謎の言葉を問いかけてきたりするファニーな老人であった。

しかし夕暮れ時、女子学生や近所のうら若い主婦の往来が増えてくると、やっさんは魂の叫びとも言える言葉を叫びだす。 

「よっ、ま◯こ」「よっ、ち◯ぽ」…どストレートである。そして皆が通る道路を往来している女子限定に向けての発言である。昭和50年代の尼崎では日常であったが多分つーか絶対アウトである。ある時は都々逸のメロディにあわせて「みてよ〜入れ〜て〜よ さわ〜ってよ〜 そんな〜女〜に〜わたしゃ〜会い〜たい〜〜」等と切実なラブソングを道端でヨレヨレのランニングシャツと白いステテコにつっかけサンダルという出で立ちの老人がワンカップ片手に踊りながら徘徊してたりする。素敵な街、尼崎。

しかし、建築会社のおじさんたちは、近所の手前もあったのだろう。そんなふうに酔い酔いの体のやっさんをとっ捕まえて、飯場の中へ乱暴に放り込む。そんなとき、偶然見たやっさんの目には何も写っていなかった。やっさんは力からの脱却、性の開放、そして支配からの卒業(by尾崎豊)を私達に伝えたかったのであろう。

その建築会社とやっさんの関係性について書き出すと本筋からずれるので割愛しますが、やっさんは建築会社の亡くなった前社長の弟さんだったらしい。その理由で建築会社でやっさんの面倒を見ていたが、奇行が激しいとの理由から、いつかしらやっさんはいなくなっていた。

やっさん…あんた、尼崎のディオゲネスやったんやね。




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