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いびつな愛のカタチ #2

「またおばあちゃ んちに戻ればいいじゃん」という意見があるかと思うが、母への恐怖心により一刻も早く丸く収 めたい、さらに恨みを買うような行動を起こしたくない。
しかし何をすれば怒られて、何をすれば丸 く収められるのかよく分からない。その場で留まり続けるという立 ち回りしか、その時の僕には出来なかった。もし祖父母の家に再び戻って、そのことが母に知れて、実家に戻った際に、どんな仕打ちが待っているか分からないからだ。

激痛に耐えきれなくなって自宅前の廊下にしゃがみ込み、気づけば半分倒れるような 姿勢になっていた。意識が朦朧とする中、父が仕事から帰ってきた。すぐに僕のもとに駆け寄り「大丈夫 か!」と一声かけ、僕は事情を説明し父が怒鳴りながら母にチェーンを外させドアを開けた。
ようやく家に入れたが、この時から新たに「自分は外に遊びにいってはいけない。それはとても悪 いことで、母の怒りを買うことなんだ。」という感覚が生まれた。

この時を境に自分の部屋でゲームをする時間が急激に増えていった。友人たちからの誘いもこ とごとく断り続け、彼らと遊びたくても自分1人だけ遊べな い寂しさ、せっかくの誘いを断ったことによる罪悪感、付き合いの悪さからいつ発生してもおかしく ないイジメや、学校でハブられるんじゃないかという展開を想像して生まれる新たな恐怖。母が寝静まった後に、見つからないよう、深夜にかけてゲームするようになった。

寝不足とゲーム中毒で、勉強をする気になれなかった僕は学校の成績がとても悪くなっていった。
そのことで、いつの間にか勉学塾に通う生活を強いられた。学校から帰宅して、行き着く暇もなく、夜22時頃 まで塾で過ごすという生活が週に3日ほどあった。何故それほどまで、遅い時間になったのか、それはこの塾が、その日に課された問題を全て終えるまで帰れないという、デスマッチのバトロワ形式であったからだ。

学校でも不出来、塾でも不出来、家でも不出来。母からは引き続き連日怒られ、その不安をかき 消すように、暴飲暴食とゲームに明け暮れる生活が確立されていった。
おかげで、当時流行っていた、格ゲーがとてつもなく上達していった。友達と集まって対戦しても誰一人として僕に傷1つ付けることは出来な かった。 それぐらいしか僕の自尊心を保つことはできなかった。
時は経ち、小学4年になった頃、母の症状もまたいつの間にかレベルアップしていた。
母の新たな口癖に 「ほんっと、何でお前はそんなに使えねーんだよ!!ったくよー!!」 というものが新たに追加登録されていた。
買い物をしていて、荷物が重くて持ちきれなかった時、会計後の品物を袋に入れるときのクオリティが低かった時、などなど日常のあらゆる場面で「ほんっと使えねーなー役立たずがよー!!!」と、いつの間にか毎日言 われ続けていた。
段々と母の表情の濁りが日々増していったのは感じ取れた。
小学4年生のある日の休日、家の居間で過ごしていた時の事だった。 この時にはすでに僕は毎日死にたいと思っていた。学校の算数用か何かのノートに死を連想させるようなことを書き綴っていた。

母が近くに来た。「この国の法律が絡んでなければ、お前なんかとっくに捨ててるんだよ?」と、真 顔で静かなトーンでゆっくりと突然ハッキリ言われた。
体が自然と動いた。自宅のマンションは7階。そのベランダに乗り 出そうと手すりに片足をかけた。ラクになれるかもしれないと、恐怖から希望へ気持ちが切り替 わりつつあるときだった。

しかし、奥の部屋に居たはずの妹に見つかってしまった。
「何をしてるの!?」と言われた瞬間に、騒ぎ になって母に見つかったら何を言われるか分からないという思考が働き、踏みとどまってしまっ た。
僕の決意は虚しく飛び降り自殺は失敗に終わった。

ちょうどこの頃から、大人たちの指示で母方の祖父母の家、父方の祖父母の家、両方の家に頻繁に連れていかれたり、泊まりに行かされるようになった。恐らく、僕が居ないところで大人達が母のことや生活のこと、お金のこと等について色々話し合っていたのだろう。
当時、母も自ら「あんま家にいないでくれる?どっか行って」と、僕に言っていた。
ある日、父方の祖父母の家に僕と父がいるとき、母が父に電話をかけてきた。これから買い物に行きた いとのことだった。その時は母のテンションが落ち着いてたので、せっかくならと周囲が「一緒に 買い物行ってみる?」と、僕に提案した。
家族皆でだし母も平和そうだし、少し楽しそうだなと思っ て、「うん」と返した。父がその旨を電話越しに母へ伝えたあと、母が父に何か返答をしたようだ。 すると、父が僕に「お前は来ないで欲しいってさ。ごめんな、また今度な…」と告げた。

このように、この時期の母は、落ち着いたテンションながらも、とても明確に僕と距離を取るような言動が多々あった。
僕の父は自営業で自分の会社を持っていて、今となってはかなりの成功をおさめ、とても裕福になり、僕がとても尊敬する大人の一人となった。
しかし、僕が子供の頃は父はまだ仕事の業界において駆け出しで、経済的には少々厳しい生活を送っていた時期があり、祖父母からの援助でな んとかやっていけていた部分が少なくなかった。

後程知ったのだが、この頃の母の境界性パーソナリティー障害としての症状が相当エスカレートしていて、僕と妹の身が危険だったようである。
当時は度々、夜中に母が叫んでいて、そのボリュームで僕はよく目を覚ましていた。
その時の母のミッドナイト発狂シリーズの中で今となっ ても鮮明に思い出せる回、第1位は、
「ほらすぐそこ!!!追いかけてきてる!!!私を刺しに来てるだろうが!!!」と、叫んでいた 回である。
目を閉じながら上半身のみ起きていて、布団に座っている状態で叫んでいた。父が「何言ってん だ!!目を開けてよく見ろ!!何もないだろうが!!!」と怒鳴りながら、何とか正気に戻そうと、必死に母の上瞼に指をかけ、閉じている目を少しだけこじ開けたのだが、それでも一向に母 の発狂は収まらなかった。

第2位は「この人殺し!!!」という母の怒号で目が覚めた時の回である。
その時も夜中で、母が「こいつはお前の弟を殺したやつなんだ!!!!」「この人殺し がぁ!!!!」と、目では僕を見ながら、人差し指は父を指しながら叫んでいた。当時小学校中学 年の僕は何を言っているのかさっぱり分からなかった。「うちには俺と妹しかいないぞ?何言っ てんだ?また夢と現実が区別できてないのかな?」と。

しかし数年後、歳を重ねてからはなんとなく理解できた。冒頭でも説明したが母は一時期嘔吐していた時期があった。あのとき母は恐らく僕の弟となる子を妊娠していて、だから時折嘔吐していたのだろう、と…。

こういった発狂の日々に加えて、暴れる母を父が必死に静止させようと、取っ組み合いになっていた日も何度も見てきた。夜遅くか、もしくは深夜から早朝にかけての間ぐらいの時間か、何人もの警察が、5回ほどは来たことがある。当時の僕はそういった光景を見ながら「こう なってるのも全部僕のせいなのかな」とひたすら自問自答していた。

ある日の夜、父が僕と妹に「母ちゃん迎えに行くけど一緒に来るか?」と声をかけてきた。たしか にもう遅い時間なのに母の姿は無かった。特にこれといった考えを働かせることもなく「うん、 行く」と、僕達兄弟は二つ返事で返した。
みんなで車に乗り、夜遅くに父の運転で母を迎えに行ったその場所は大型のパチンコ店だった。中に入るとうるさすぎて耳と頭がおかしくなりそうだった。父の背 中を追いかけていくと、しばらくして母を見つけた。
帰ろうとしたとき、母が突然「なんか欲しいのある?」と聞いてきた。もうわけが分からない。
「母ちゃんはいつからこの生活を送っていた?」
「お金の事で色々今まで言い合ってたし、喧嘩もしてたのに、こんなとこする余裕無かったはず じゃ・・・」
「あんなに怖いのに、なんでいま急に何かを買おうとしてくれてるんだ?」 「もうこんなに遅いのに、明日の学校大丈夫かな・・・」
「これで僕の明日の寝起きが悪かったり、また具合悪くなったりしたらまたすごい怒られるのか な・・・」

爆音が鳴り響く中、寝不足で心と体が不安定な僕の気持ちは母の何気ない一言でパニックになり余計体調が悪くなった。
「どれがいい?早く決めな」母が鋭い目で急かしてきた。
とりあえず答えないとと思い、景品棚に置いてあった当時流行っていた少し高めのゲーム機を選んだ。
もう本当にわけが分からなかった。不安になって、いても立ってもいられなくなるので、 あまり深く考えないように努力した。2日後ぐらいからは、また母はいつものように怖くなってい た。

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