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いびつな愛のカタチ #1

記憶の中で、一番最古のものを物心が付いたときと言うのであれば、僕の中でそれは幼稚園生の時だ。
自宅で母か洗面所に向かって苦しそうに嘔吐していた。 僕はいつものように幼稚園に行く支度をしていた。 子供ながら母の容態が気がかりだったので、ずっと母を見ていた。 そんな僕に対して母は
「何見てんだよ、見てんじゃねーよ、さっさと早く行 けよコラァ!!」
いくら小さかったとはいえ、母の口から出る罵声は明らかに普通ではないと思った。

幼稚園から帰ってくると、母はゲームをしているか、タバコを大量に吸っているか、布団で寝て いるかの3パターンだった。もしくは全てだ。そして僕が起こすどんな些細なミスに対しても母は僕によく怒鳴っていた。

夜 になるといつも夜中まで父と母は大声で喧嘩していた。
当時の僕は母の朝のルーティーンの記憶が毎日色濃く頭の中にこびり付いていて、なぜいつも怒 鳴られるのか、もしかしたら僕が原因なのかもしれないと次第に考えるようになった。
けれども奇妙なこともあった。深夜に母が私を抱きかかえ、ともにテレビを観させてくる時が あった。身動きがとれないほどの力で僕の体を完全に固定しており、どれだけ眠くなって抜け出したくて もそれは叶わなかった。けれどこの状態の母は日頃とは打って変わって非常に大人しかった。
「怒られないひと時」
その数少ない状態に安堵していた僕は耐え続けた。正確には頑 張って耐えていた。漠然とした不安を抱え常に緊張感に 全身を包まれながら、流れに身を任せた日々を送っていた。
後々大人になってわかったことなのだが、僕の母は重度の境界性パーソナリティ障害だ(境界性人格障害ともいう)

境界性パーソナリティ障害とは、気持ちや行動が不安定で、仕事や人間関係で著しい苦痛や支障をきたすらしいが、母の場合は外面は普通で家庭内においてだけ異常だった。
母と離れて暮らし始めて、改めて客観的に母との記憶を回想した結果、彼女自身に問題があると思った。母と離れるまではある意味、洗脳されていたので大概の事は自分が悪いのだと思って生きてきた。

一般的な母と子の間柄とは程遠い、いびつな愛情を一身に受けてきた僕の半生。まだあまり認知されていない境界線パーソナリティ障害の親を持つ苦しみや悲しみ、いまだに続く母との確執、近年では毒親や親ガチャといった言葉で一括りにされているが、実情は家庭によってかなりのばらつきがあると思う。
僕自身は幸いにも、父や父方の祖父母の助けや愛情があったおかげで、今はなんとか社会の一員としてやっていくことができている。
大半の家庭ではきっと母からのそれなりの愛情があり、子は母に安堵と信頼を覚えるのであろう。
今は母から離れて失われた青春を謳歌してるけれども、心のどこかで常に母に対する恐怖心はいまだにある。自分自身の伝記を書くことによって、母から逆恨みを買うのではないか、街でバッタリ出くわしたら勢いで刺されるのではないか、様々な恐怖心と葛藤の中で、一般の常識とは大きくかけ離れた家庭があるということを、一つの素養として理解して欲しく、執筆に踏み切りました。

話は戻るが小さい頃の記憶をたどると母の抱える境界性パーソナリティ障害の兆しはす でにあった。
母と一緒にいる家での生活が要因となり、次第に連日、寝不足になっていき、尚且つ元から重度の喘息持ちで あった僕はみるみる体調不良になっていった。 幼稚園でも自宅でも度々嘔吐する゙ようになり、入院の頻度や期間が増え、結果的に幼稚 園は3年間のうち1年間ぐらいしか通えなかった。

その後、小学校に入学した。この頃から母はあまり料理をしなくなった。朝ごはんは抜きか食 べたとしてもカップラーメンのみだった。最初のうちは母自身も「やべ、やっちまった!」という自 覚がまだあったのか、朝ごはんが抜きだった時に、母自ら学校へ電話をし午前中に学校の先 生に職員室に僕は呼び出され「さっきお母さんから電話が来たよ。とりあえずこれだけでもい いから食べなさい。」と、先生からひっそりとお菓子をもらっていた記憶がある。
ここで勘違いしてはならないのが、境界性パーソナリティー障害を抱える母の「やっちまった!」と いう意識からの学校への連絡というこの行動は、僕を心から心配したわけではなく“もしこんなこ としたのを周りに知られたら私は悪者扱いされてしまう”という意識の元に起こったも のであるということだ。

昼は給食があり、夜に関しては幸い父が何かしら買ってきてくれ、当時母の代わりに家事を しにうちによく来ていた母側の祖父母が作ってくれた料理などがあった。
朝食が無い日、あってもカップラーメン。そして母の人間性に対する違和感や、そこに対する 未発達で追いつかない自分の感情や理解力。
小学2年生の途中辺りから気が付けば僕はスト レスによる摂食障害を起こしていた。
学校から帰宅し祖父母と会える夕方以降から食欲が止 まらなくなり、当時は大人サイズの主食を1日6食ほど食べていた。家にいる時間の全てが緊張 感と不安でいっぱいだった。
その時は、食事によって、その不安を書き消したかったなどという認識 は出来ていなくて「なんでこんなに僕だけお腹が減るんだろう・・・もうこれ以上太りたくない・・・」と いう思いが大半を占めていた。
当時の体重は大人になった今の体重に引けを取らなかったので、肥 満により相当な負荷が体にはかかっていたと思う。

ある時から僕の体に異変が起 きた。熱は無いのだが全身が鉛の様に異常に重たく、頭が茹で上がったようにボーっとし続け、 そして吐き気が止まらなくなった。大人になってからの見解で思い返すと、もしかすると自律神 経がおかしくなっていたのかもしれない。

この状態がしばらく続いた僕は耐えきれず、「症状が辛いから学校を休ませてほしい」という意 味合いのお願いをある日、母にした。
すると、「は?テメーのために金払ってやってんだから休むと かふざけんなよ!ぜってー行けよな!?」との返答があった。
どうしようもないので、ダルくて気持 ち悪くて1日中吐き気がある状態で、死ぬ気で通学し続けた。
これを機に今までは「何かわからないけど全部俺が悪いんだ」という価値観があったが、それに 加え新たに「自分への憎しみ」が膨らんでいった。
「怒られたくない。なのに何で僕は不出来な奴で、怒られるような事しかしないんだ」という意識が次第 に強くなっていった。
また小学校低学年のうちからいつの間にか母の口癖の中に、
「学校のみんなは表ではあんたに笑顔で接してるんだろうけど、影では絶対悪く言ってるんだか らね」
「みんな装ってるだけだからね、分かったか!?」 といったものが新たに追加されていた。
境界性パーソナリティー障害者はターゲットを自分の所有物としてしか扱えなくなると同時に、
「お前にはあたししかいないんだからな?」
という洗脳行為を自覚がないまま無意識に永遠と言ってくる。
親子のようにパ ワーバランスが親に偏っている場合、片方が一方的に意見できるような間柄だと、より一層タチ が悪い。

しばらくして、ある日学校から帰宅した後に、父親側の祖父母の家に1人で遊びに向かった日が あった。僕の実家から近かったので、昔から時折行くことがあった。この 日はいつもより少し遅く、夜18時ぐらいまで遊んだ。
ほんの数分間かけてマンションの7階にある僕の家に帰宅すると、ドアにチェーンがかけられ ていて、開けられなかった。何だろうと思いインターホンを鳴らすと、母が出てきて「謝れ!!完 璧な謝罪の言葉が出るまでぜってー家に入れねーかんな!!」と一言勢いよく怒鳴り散らし てまたドアを閉じチェーンをかけた。
頭が混乱した。何に対して謝ればいいのか良くわからなかった。
この季節は秋頃で外は肌寒 く、そのせいだったのか、不安が押し寄せてきたからなのかトイレに行きたくなった。再度イン ターホンを鳴らし、トイレに行きたい旨を母に伝えたが、また怒鳴り散らされ再びドアを閉められ た。そこから2時間半程経過し、我慢しつづけた事が原因で下腹部に激痛が襲った。



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