見出し画像

いびつな愛のカタチ #5

そして、大学受験を終え、合格発表当日。
僕は母の指示で、有名音大の一つである、TG大学の音楽科1本のみで受験した。なぜなら、他の音大への興味に関する僕の意見は、何一つ母には通らなかったからだ。

結果は不合格だった。僕自身、そうなることはとっくに分かっていたし、それほど興味のない大学だったので、自発的なやる気も起きなかった。
だが、“母の機嫌を損ねたくない”という、それまで の人生全てで形成された僕の後天的な強い本能、いや、“洗脳”が無理やり僕をここまで努力さ せてきた。
不合格を知った母はもちろん怒り狂った。
“なんの努力もしてこなかったクズめ”と。

浪人生活が始まった。母の指示で、ついほんの少し前まで在学していた高校に、音楽科関係の授業のみ再び受けに行った。
無料でそのような機会を頂けることは、広い世界を見渡して考えたら、非常にありがたいことで、絶対に感謝しなければいけないことなのだと頭では分かっていた。
しかし、精神状態は最悪だった。私服だし、卒業したばかりのOBだし、当然ほとんどの在学生 が白い目で僕を見ていたと思う。想像すれば容易に分かると思うが、恥さらしもいいとこだ。常に恥ずかしかったし、1分でも1秒でも早く居なくなりたいと思いながら、授業に望んでいた。男子の後輩 たちだけは仲良く慕ってくれたので、それは唯一の救いだった。

そこに加えて、プライベートでは、一番メインの専攻楽器、副科ピアノ、ソルフェージュ、これらのレッスンにも通った。
そして、浪人開始直後から、僕はアルバイトを始めた。
きっかけはなんと「いい気分転換になるんじゃない?」という、母からの言葉だった。
「もしかして、ようやく多少は普通に気にかけてくれたの かな・・・?」と、最初は感じた。
しかし、いざ生活が始まってみると、僕のバイト代は、母のタバコ代、家族3人分のケー タイ代、共に買い出しに出掛けたときの会計代などに、毎月ほぼ全て消えた。
余った分で、好きな惣菜パンや少し高めのカップ麺を時折食したり、数百円の中古のPS2のソフトを買って、密か にプレイすることが、このときはちょっとした楽しみになっていた。

補足として説明するが、境界性パーソナリティー障害の症状の1つとして、
体力的にどれだけ健康で、むしろなんならそこらへんの人よりも強い精神力や体力を持っていたとしても、自分のことを“私は弱くて働けないからしょうがねーだろうが!!”と、説得力ゼロの言い訳や御託を並べて、働きに行かない。
これは良くあるパターンらしく、僕の母も昔からそれだった。
両親が離婚してからは、父は、僕と母と妹が暮らす家に、水道光熱費や最低限の生活費、そしてなにより、僕と妹の学費をずっと支払い続けてくれた。
その時の父の財政状況は自営でやってるビジネスが軌道に乗り始め、比較的、裕福な暮らしをしている事には気づいていた。
それでも最低限の仕送りしか母に送らなかったのは、母を目覚めせるためだった。
僕や妹が学校に行ってる間に、本当に少し、 ほんの少しでも、時短のパートやバイトに母が行くだけで、それなりにやってい けるぐらいの金額設定だった。そうして外の一般社会で仕事をして、まともな大人達に触れさせ、コミュニケーションを交えて、外の人間が どのように生活しているかを見て聞いて触れさせれば、母の症状も徐々にいい方向にいくのではないかと、父は信じていた。

そもそも、父が離婚を決意した理由は、メインのターゲットはもともと父であって、僕よりも先に、強い仕打ちをたくさん受け続けてきて、とうとう父が耐えられなくなったからだった。
そうして自分の手元から離れた、“元所有物”に対して、境界性パーソナリティー障害の母は、終わりのない大きな憎しみを膨らませていった。 その矛先が僕に向かってきただけの話だ。

父と母が離婚してから、僕と妹は、常日頃から父への痛烈で陰湿な悪口を、毎日のように母から聞かされ 続けた。
そのせいで「父は憎むべき存在」という、完全な洗脳をとても長い年月をかけて、僕等は 固く植え付けられてしまった。
度々、父は僕に電話やメールで、

「今はまだ気が付けていないのかもしれないけど、お前達兄弟はアイツの洗脳にかかってるだけで、本当に理不尽で異常な扱いをされてるんだからな。親なんかと思うなよ。弁護士でも警 察でもなんでも使って、いつか絶対にお前達を助け出してやるからな。待っててくれ!!」

父の熱い思いがこもったメッセージは残念ながら、当時の僕と妹には、全くもって響かなかった。
「何意味わかんねーこと言ってんだよ!うるせーよ!あんたが俺らをこんな目にあわした張本人なんだろ!?こっちは母ちゃんから全部聞いてんだからな!!」
などと毎回言い放ち、無下に扱ってしまった事に今は本当に申し訳なく思っている。

しかし、洗脳とは本当に恐ろしいもので、家庭という小さな社会で毎日のように、同じことを念仏のように唱えられると、それが正しいと思ってしまう。
ある意味カルト教団のようなものだ。弱い立場や人の弱みにつけ込んで、マインドコントロールする。
そうして、母による洗脳と、僕が母に金を貢ぎながらの浪人生活は1年経過し、再びTG大学の受験日を迎えた。
この一年を振り返ると、自分でも本当によく頑張った思う。
そもそもTG大学に受かるためには、たゆまぬ努力のもと、プロも混ざって参加するような難関な音楽コン クールで、最優秀な成績をおさめたりして、名を広め、大きな演奏会を数回開くなどの実績を作るか、もしくはそれと同等の天才的な実力が必要不可欠だ。
母は、日頃から目にする、ありとあらゆるオーディションやコンクールの募集要項に関して、それらを見つける度に、
「テメーぜっっっっっったいにこれで1位取れよ!!」 とか、
「これでぜっっっっっったいに最優秀賞取んなきゃダメだからな!!」
と、激励ではなく、激昂してきた。

同時に、また「オメーはほんっとに、なに1つ努力してねーんだからよー!!!」 とも、口々に言っていた。
やれることは、とっくに毎日継続してやって来た。
いつになればこの脅しと否定から 解放されるのか。どれだけ反発したくても、どれだけ怒りが溜まっても、幼い頃からの洗脳により、 脳が勝手に僕の体を硬直させ、声が出ないように口に力をいれて閉じさせる。

「あとどれぐらいだ。いつまでこれを味わい続けるんだ。」

毎日こう考えながら生きていた。
そうして、自分の意思ではないTG大学への受験に受かる確率を上げるべく、母の機嫌を損ねたくない一心のみで、気合いで行動力を起こし続け、コンクールをいくつか受けたり、当時のTG大 学現役講師の方にお願いしてレッスンを教わり、少しずつコネクションを形成していったり、がむしゃらに自分を無理やり動かし続けた。

苦痛しかなかった。音楽は好きで楽しくてやりたいことのはずだったのに、今やっていることはや りたくないこと、そんな意識で毎日過ごしていた。
もちろん、母からの罵詈雑言を浴びる度に、少年時代から形成された、「なんで僕はこんなに不出来なクソなんだ。早く死ね。」 と自分で思考する自己否定は、大学生になってもパッシブスキルとして健在だった。

しかしながら、情けないことに、僕はこの大学に再び落第した。前回よりもかなりクオリティは上がって いたが、それでもダメだった。
しかし、この年は前回とは違い、周囲の他の音大受験生と同じく、僕も滑り止めを受験する事が出来た。これは、指導していただいた先生方が、母に話をしてくれたおかげだった。

僕は滑り止めの大学には特待生として合格し、多少なりとも通常より低い学費で、その音楽大学 に通うこととなった。
もちろん、母からはなんの祝いも労いもない。
「何やってんだよテメーはよー!!そっちだけに受かったってしょーがねーだろーが!!」
ただ、それだけだった。
大学に入り、気が付くと、昔と比べて母からの罵詈雑言の頻度ががほんの少しずつだが減ってきていた。そんな中、早い段階から多種多様な友人が数人出来た僕はいつしか「大学生になったんだから、多少、羽目を外しても、そろそろ大丈夫なんじゃないか・・・?」
母の態度が 平和な方向へ向かうのではと期待を少し膨らませていた。
そんなある日、僕を含め何人かで、地方から来て一人暮らしをしている同学年の友達のアパートに泊 まって遊ぶことになった。詳細にではないが、なんとなくその旨は、事前に母に言っていた。
「きっと今までとは違った扱いをしてくれるはず」 母の症状が少しずつ大人しくなってきていた気がして、勝手にそう期待していた。
しかし、泊まって夜が空けた頃、早朝から母から電話がかかってきた。

「テメーいつまで遊んでんだ!!あぁ!?んなことしてる暇ねーだろーがぁー!!!」 と、全力で30分ほど怒鳴り散らされた。

また別のある日、僕が尊敬する高校時代の先輩方と家に集まったときの事。先輩方は全員、美術科と音楽科出身で、今でも活躍し続けている。
高校時代、家でも学校でも孤独だった僕を、唯一面倒を見てくれて仲良くしてくれた方々だ。
この方々からのお誘いだけは、無理してでも極力顔を出すようにしていた。この日もそうだった。しかし、母から深夜にメールが来た。どうやら体調を崩し、胃が結構痛くなったらしい。最初はその話から始まったが、気が付くと、
「ほんっっっとにオメーはいっつもいっつも役立たずだよな!!!普段から使えねーんだから、こんな時ぐらい人の役に立てよクソが!!」

大学に入っても、昔より頻度は減ったものの、相変わらず自分の息子を平気で傷つける性悪な部分は何一つ変わらなかったが、僕自身は少しづつ大人への階段を登っていった。

僕自身はこれから社会にでて様々な人たちと出会い、経験を積むことによって考え方や価値観が変わっていき、大人へと成長すると思ったが、母に関してはこの先ずっと変わらず、僕に罵詈雑言を浴びせ続けてくるだろうと思うと、吐き気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?