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いびつな愛のカタチ #4

自宅に3人でいた時の事。僕はトイレに入っていた。すると母が来て「おい早 くしろよ」とうるさく急かしてきた。
無理なものは無理なので、「もう少しまってよ」と軽く答え、用をたし終えた僕は手を洗い、トイレを出た。
自分の部屋へ戻 ろうとしたら目の前には、スクールバッグの中に、尻を丸出しして突っ込み、脱糞し ようとしていた母の姿があった。

「お前が遅いからもうここでしちゃうもんね~!!」

母はニタニタ笑いながら、優越感に浸っていた。
ケツ丸出しで自分の子供のスクールバッグに糞をする親は、きっと世界中見渡しても片指で数えられるくらいしか居ないだろう。どっからどう見ても常軌を逸しているし、母としてではなく、人として本当に終わっていると思う。でもこれが僕の母親なのだ。

これにはさすがに一瞬で反抗のエネルギーがMAXになった僕は「おい!!!やめろ よ!!!!」と、珍しく強く出た。
すると母は「んだとその言い方は!!!ナメてんのかテメコ ラァ!!」と、倍返しで僕にぶちギレてきた。
「え・・・?これも僕が全部悪いの・・・?」 憤りに満ち溢れた。

僕はこのように、傷ついたり、怒りに満ち溢れたとき、いつの日からか、物に激しく当たって破壊し たり、自傷行為を何回も行うようになっていた。
面と向かって反論すると、さらに嫌な目に遭うの で、かといって、友達などに事あるごとに毎回相談なんてしていたら、間違いなくウザがられるとも思ったので、1人で何かしらの手段で発散するしかなかった。

ある日、学校の数学の授業中に、気が付くと自分のノートに
「死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死 にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい」
と、大量に書いていたことがあった。

数学の授業が終わって、次の体育の授業ために皆が教室を 出ていった。僕も移動しようとしたとき、数学の先生が僕を呼び止めた。
ノートの落書きが先生に見つかっていたのだ。僕はその事に授業中気が付かなかった。先生は、 僕に何があったのかと、聞いて来たが、僕は“何でもありません。全部僕が悪いんです。”とだけ答 えた。

その日、学校が終わり家に帰ると、母が僕の元へとすぐに駆け寄ってきて、

「おいテメー!!!!!学校であたしの事で余計なこと何か言ったのかーーー!!!!!!」

と、何度も激しく怒鳴られた。僕はすぐに察した。学校の先生達が、僕のノートに関して、母に電 話で問い詰めたのだった。

“何やってくれてんだあのクソ大人達...”
僕はありがたさより怒りを感じた。先生達が母に何も言わなければ、僕は怒られることは無かったからだ。
教師というものは、なぜこうも当事者の後の展開を何も予想せず好き勝手な行動を取るのだろう か。あまりにも立ち回りが下手くそすぎる。子供の事を考えての行動だと今考えれば理解はできるが、結局そのせいで母の怒りを買ったのだ。この日以来、大人に相談することは無くなった。

これら中学時代を経て、どうにかこうにか、音楽科の高校へと進学した僕は、毎週行われるプロの演奏家の講師による個人レッスンの課題曲を、日々必死に練習していた。
そしてこの頃からは、次第に僕が家事や料理をするようになった。
理由は単純明快だ。母がしないからだ。1日中寝て いるか、大量のタバコを吸っているか、ガラケーでゲームをしているか、ネットサーフィンをしてい るか。もうカップ麺とはおさらばしたかったので、仕方なく料理した。

幸い、センスがそこそこあった様で、毎回味はうまく、失敗という失敗も最初から全くしなかった。 妹も「え、こんな出来たの?」と言いながら、うまいと言って毎回食べてくれていた。
僕はまたいつの間にか母の言いつけを守るようになり、ほとんど全くと言っていいほど、外に遊び に行くこともなくなっていった。ひたすら楽器の練習をし、ひたすら罵詈雑言を浴び続け、ひたすら自傷やゲームで発散し、心のコンディションはみるみる悪くなっていった。

また音楽コンクールも含め、僕の演奏の機会の際、周りが何と言おうと、母だけは僕の事を否定しかしなかった。他の出演者がいないタイミングを上手く見計らって、隙をついて僕の控え室まで来て待ち伏せをし、演奏し終えた直後で、疲れきって放心状態の僕が控え室に入ると、すぐに「なに やってんだよテメー!!!」と怒鳴り、ダラダラと説教が始まるのだ。
これが部活動の顧問だったら陰口やら何やらで心のバランスは保てるかも知れないが、相手は実の母親だ。
家に帰っても息つく暇もなく、心身ともに緊張とストレスで自我が少しづつ崩壊していくのがわかった。
僕が高校時代の母は、僕を某有名かつ日本国内でダントツのブランドと実力を兼ね備えるTG大学に受からせようとしていた。僕には考える猶予は一切無く、期待に応えるため、罵詈雑言を浴び 続けながら努力し続けた。
そんな僕でも、高校時代、一時は恋人が居た。彼女と出掛けて遊ぶために、当時僕は、なんとか して口実をつけ、彼女と密会していた。

ある日、当時付き合ったばかりだった彼女と密会していたときのこと。
母から、 何時ごろに帰るのかという電話が来た。
彼女の存在はまったく明かしていなかったのだが、近くにいた見知らぬ女性の声が、電話口の母の耳に入ったのだろう。
母は即座に反応し「あ?なんだオメー女と一緒か?」 などと言ってきた。
色々と状況の説明がめんどくさすぎたので、帰る時間を答えて早々に切ると、 その直後、メールが届いた。

「エイズになってもわたしだけは寛容なんだからね」

交際相手がいることを知っていて、共に出掛けているのも知っているという のなら、100歩譲って我慢はできるが。しかし母の場合は違う。 妄想のみで、こう言ってきた。

毎回毎回干渉の仕方、内容がこれ以上に無いくらい、気持ち悪い。
気持ち悪すぎた。きっと一応息子だから気にはなるのだろうけど、それにしても歪んだ愛情表現である。

「病気になっても私だけは唯一のあなたの味方」的な感じで言いたいのか分からないが、チョイスするワードが全てコンプライアンスにひっかるようなフレーズばかりで、息子の心をズタズタに引き裂いていることを彼女は自覚していたのだろうか?否、そんな質問は愚問だ。

そんな感情が少しでもあればきっと今頃、和解して、普通の親と子のように年に何回か会って、お互いの近況報告をしながら、食卓を囲んでいるだろう。

只々、僕は平凡で平和な日常を過ごしたかった。それが自分の置かれた環境の中では、いかに難しい事かは理解していた。
高校入学後からは、毎週土日に母の実家へと夜ごはんを食べに行っていた。しかし、それ だけではなかった。
毎回、母が、微々たる年金を両親からもらっていた。

「なんでこんなにピンピンしてて元気で、日頃ずっとくつろいでて時間も有り余ってるのに、自分で 働かないんだろう」

僕は毎週土日に見る光景に対してそう思いながらも、確立されている母への恐怖から、なにも言 わずただ黙って見ることしか出来なかった。

月日は流れ、高校卒業間近、3年間の集大成を見せる、音楽科生徒による卒業演奏会が開かれ た。毎年、卒業年次生全員で、大型のコンサートホールに保護者や一般客を招き、ソロ曲を披露 する場だ。

しかしだ。 音楽科の高校生にとって、3年間一貫して、一番の課題は、もちろん、第1希望の音楽大学に受 かることだが、その次ぐらいのレベルで、この卒業演奏会に全力を注ぐ。

当日。皆が演奏を終え、時間は夜20時頃だった。皆、各々の手段で会場から帰宅した。僕も、電車やバス等で、1人で帰っていた。すると、この日演奏を聴きにきていた母から1通のメールが届 いた。

「なんだあのクソみたいな演奏は。お前は本当に何も努力してなくて、練習もしていないクズだ。 恥を知れ。」

叱咤激励とは程遠い、人の心を傷つけるには十分な言葉を、母は何のためらいもなく、いつものように吐き捨てた。
受験間近でありながら、それらとは全く関係のない演奏会。そこには利害関係などなく、出演者の友人、知人、家族、そういっ た繋がりのある人達が

「すごいよかったよー!」
「成長したねー!」
「この 調子で◯◯音大も受かるよきっと!」
「今日はほんとおつかれさまー!」
「応援してるよ!」
などと、満場一致で出演者に対して労いの言葉をかけていた。

友人や、共に共演したクラスメイト、音楽科の担任の先生などは、他人とは言え、日頃の僕の練習や努力を知っていたので、それなりの言葉をかけてくれたが、母だけはいつもと変わりなく、安定の罵詈 雑言だったことに、人として情けなくなった。母としてではない。人としてだ。

演奏のテクニックが切り口とはいえ、すぐに存在や人格の否定に切り替わった、相変わらずの内容だった。
「こんな日でも認められないのかよ。こんな日でもまだダメなのかよ・・・。」
どんな機会でも、どんな経緯がそれまでにあっても、僕の存在は決して肯定されることなど無いのだと、改めて理解した。
悲しさで涙が溢れてきた。
皆がハッピーエンドで帰宅し、食卓を家族で囲んだであろう、この日の夜。僕は泣きながら、母からの否定のメールに絶望し、自分の部屋で1人カップラーメンをすすって過ごした。

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