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Zohab Zee Khan ワークショップ・レポート "詩人の授業"(前編)

詩人・Zohab Zee Khan(ゾハブ・ズィー・カーン)はポエトリースラムのオーストラリアチャンピオン。トレードマークは長身とくるりん髭。見た目も印象的だけど、そのステージはさらに鮮烈。ガツンとくるエネルギーに溢れてていて、思わず言葉と一緒に走り出したくなります。

その彼が日本のインターナショナルスクールで、ティーンエイジャーたちを相手に行った詩の授業…これまたパワフルでした‼️ マエキクリコさんのレポートをお届けします。まずは前編。読めば創作の秘密がわかるかも!

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「ここにいるみんなは詩人だ」とゾハブは言った。


「自分が学生だった時に、こんな先生に詩を教えてもらいたかった!」

彼はそんな思いを具現化したような人だった。

英語飛び交う校舎を満開のソメイヨシノが優しく包む、 東京は世田谷区にあるセント・メリーズ・インターナショナル・スクールの図書室。詩の一日特別講師として、彼は爽やかにやってきた。

「まずはお互いに自己紹介をしようじゃないか。俺はオーストラリアのスポークンワード・チャンピオン、Zohab Zee Khanだ。今日一日、君達と一緒に詩の話をしたり、詩を作ったりできることを楽しみにしている。では、みんなも名前と出身地、それからこのクラスに来た理由を話してくれないかな」

朝イチからここに集まり、ゾハブの一日コースを選択した11人の中学生は、文字通りインターナショナルな顔ぶれ。そして、言葉や詩に対する情熱を持ってやってきた生徒ばかりだ。もっと詩をうまく書きたい、もっと上手に人前で表現したいという願望を語る少年たち。詩という共通項を通じて、 ゾハブと生徒の距離が一気に縮まる。

そこへガヤガヤと20人ほどの新しい中学生グループが図書室に入ってきた。今日は一日コースを選択している前述のグループのほかに、約1時間ごとに入れ替わり立ち代り3つのグループが、この詩人の授業を受けることになっているのである。 当然、自動的に(或いは強制的に)送り込まれる生徒もいることだろう。

「やぁ、よく来たね!じゃあ、この中で自分が詩人だと思う人、手を挙げて」

一日コースを選択している生徒たちが手を挙げ、他にも2、3人が少し照れ臭そうに手を挙げる。そんな「詩人」をニヤニヤ眺める生徒や、ふざけあっている生徒、かったるそうにしている生徒など、最初のグループと後から来たグループとの間には、明らかな温度差がある。さてゾハブはどうやって、異なる2つの鍋を同時に調理していくのだろうか?

「ここにいるみんなは詩人だ」
とゾハブは切り出す。
「朝起きてから今まで、声を発したかい? 言葉を発していたら、その人は詩人だ。親に向かって放つ言葉、友達に向かって放つ言葉、見知らぬ人に向かって放つ言葉、みんな違うだろう? それらは異なる詩のスタイルなんだ。語る者は皆、詩人さ」

のっけから喋りがスポークンワード詩人そのもの。すでに彼のショータイムだ。
「詩は普通の言葉をよりパワフルにしたものだ。つまりジムでワークアウトした言葉ってこと。より強くヒットできるようにね。誰だって、言葉をトレーニングすれば、より強く届く言葉にできるのさ。それを詩人と呼ぶ」

いわゆる文系ではない体育会系の男子たちも耳を傾けはじめる(このジムのたとえは、図書室に蔓延していた男性ホルモンのおかげで生まれたアドリブだったと、あとでゾハブは教えてくれた)(そう、ここは男子校なのだ)。

図書室が一気にライブステージに!


「それじゃあ、そろそろ俺の詩をひとつやろうかな」
とゲスト詩人。
「待ってました!」という空気と「お手並み拝見」という空気が混じる。幕も壇も照明もないけれど、ゾハブが深呼吸をして第一声を放つ前の濃い沈黙は、その場をたちまちスポークンワードのステージに変えた。

“I write, I write not to fight, but to love…”
「俺は書く。争うためではなく、愛するために…」

授業中の語りも独特な言葉のセンスに溢れていて十分に詩的なのだが、詩のパフォーマンスとなると、この人は呼吸が変わる。部屋中に響くほど、ガバッと息を吸う。そして、肺活量分の空気を全て言葉に置き換えるべく、一気に詩を吐き出す。そして、またガバッ。水泳選手のような息継ぎ。彼の呼吸のリズムが、空間に見えない行間を生んでいく。

次第に真剣になる生徒たちの目の色。ゾハブの高密度な言葉のパワーが、そこにいる人間の身体にどんどん浸透していくのが、まるで見えるようだった。(体験したい方は、ぜひ“I write”で動画を検索してください)。

この「ゾハブの詩を聴く」という共同体験を経て、意識的詩人グループと潜在的詩人グループの温度差は少し縮まったようだ。「詩ってなんかすごくね?」という空気が彼らを包む。パフォーマンスを終えたゾハブは、ちょっとリラックスして言った。

「じゃあ今から、Brain Dump(脳の垂れ流し)をしよう。『あ〜、なんかこの詩のクラス、ワケわからね〜』『今日の夕飯なんだろな』なんでもいい。5分間、頭に浮かぶことをただ紙に垂れ流して書き続ける。俺はこれを毎日、最低5分から1時間やってるよ。自分の中から詩人を引き出すためにね。これは自分と向き合うことにもなるんだ。自分のトリセツを書くようなものさ。書くほどに、自分のアタマがどんなにクールかって、わかるようになる。そして長く自分とつるむ分だけ、自分が好きになるんだ。まずは、書いて、書いて、書いて、とにかく5分間ペンを止めずに、ただ書き続けるんだ。スタート!」

ティーンエイジャーのざわめきは次第に紙に吸い取られ、やがて静寂が訪れた。代わりに饒舌になっていく鉛筆たち。

5分間、若い脳の独り言がアウトプットされたあとは、詩作テクニックについてのレクチャーだ。詩人兼教師はたずねる。

「言葉を効果的に伝える『文学的技法』をいくつ知ってるかい? 手を挙げてみて」

「Alliteration!(頭韻法)」
「Rhyme!(韻)」
「 Onomatopoeia! (オノマトペ)」
「Hyperbole! (誇張法)」
「Metaphor! (隠喩)」
「Simile! (明喩)」

次から次と、まるで忠実に予習をしてきたかのように定義と用例を答える現役中学生たち。わかりやすく回答に補足をしながら、基礎確認のキャッチボールをスムーズに終え、満足げに微笑むゾハブ先生。
「よく知ってるじゃないか。では、また紙と鉛筆を用意して。隠喩と直喩を使って、思いつくだけ文を書いてみてごらん。Be動詞で直接つなぐのが隠喩、likeとかasを使うのが直喩、それだけの違いさ」

なかなか面白い例文が出てくる、出てくる。
「The man is a stray dog.(その男は野良犬だ)」
「Creation is like a symphony.(創造とは、シンフォニーのようなものだ)」
「Time is like flowing water.(時とは流れる水のようなもの)」

生徒が答えるたびに、
「面白い!」
「詩人だねぇ」
「すごくいいよ。もう一回読んでみて。」
「こうしたら、もっと良くなるんじゃない?」
とゾハブはポジティブに返していく 。


「今日、君たちの答えに不正解はない」


そして、次のエクセサイズに移る。
「今度は五感を使った直喩だ。例えば聴覚を使った直喩は、『森の鳥の声は鳴り響くベルのように、聞こえた』。五感を全部使って書いてみて」
すると、少年詩人たちは村上春樹みたいな直喩をぞろぞろ書き上げてきた。

「She looked like a forest with hidden treasure.(彼女は宝を隠している森のように見えた)」
「The rain sounded like fairy’s fingertips snapping xylophone.(その雨は、妖精の指先が木琴を弾いているような音を立てた)」

お互いの直喩を楽しんだ後は、隠喩のエクセサイズ。
「では、延長された隠喩(extended metaphor)を書いてみよう。これはディーテールを加えて、長文や長い文章になった隠喩のことだ。もっと時間を使っていいよ」
そして、みんなを「おぉ〜!」っと言わせたのは、ある生徒のこんな文だった。

「People are not vessels to be filled, but flames to be lit.(人とは満たされるべき器ではなく、灯されるべき炎なのだ。)」

こうして、両グループの生徒たちが詩人として目覚めたところで、一時限目は終了。一日コースの生徒たちが詩という非日常にとどまる中、1時間コースの第1グループは日常に帰っていった。しばしの休み時間を挟んで、第2グループがやって来るのを待つ。

すると、第2グループが到着する前に、ゾハブは朝イチから集まっていた詩人グループにこう呼びかけた。
「君たちは特別なグループだから、何か名前をつけたいんだ。何にしたらいいかな」

楽しげなやりとりの後、「Poetry Squad(ポエトリー隊)」に決定した。本日のポエトリー隊の最終目標は、午後に講堂で行われる全校生徒のためのゾハブのライブで、スポークンワードのパフォーマンスをすること。そのためのグループポエムを一緒に作り上げること。

「まずは、それぞれが詩の題材にしたいトピックをどんどん書いていくブレストをしよう。今日は自由な日だ。今日、君たちの答えに不正解はない。書きたいことをひたすら書けばいい。スタート!」

ゾハブは、ただ頭にランダムに浮かぶことを書く「Brain Dump」と、いわゆるブレストと呼ばれる「Brain Storm」を明確に使い分けていた。頭に浮かぶことをひたすら書くのは同じだが、ブレストには目的があるのだ。ポエトリー隊としての共通の目的 – グループポエムを一緒に作り上げる – そのためのブレスト。少年たちの表情も使命感を帯び、Brain Dumpのときよりも真剣になっている。

そこへ、第2グループがやってきた。
「ポエトリー隊は課題を続けて」
そして、新しく詩の世界に足を踏み入れた若者たちに向かって、
「やぁ、よく来たね! じゃあ、この中で自分が詩人だと思う人、手を挙げて」

第2ラウンドの始まりだ。最初のグループと同様、詩人意識の低い生徒がほとんどだが、彼らに対してもゾハブの種明かしが始まった。
「ここにいる人はみんな、詩人だよ」と。

しかし「誰でも詩人」とは、ずいぶんと大胆に詩人の定義を広げてくれたものだと思う。詩人とは、人に認められる詩を書く人でもなければ、カッコよく詩のパフォーマンスをする人でもない。詩集を出す人でもなければ、有名な賞を取る人でもなく、詩で飯を食っている人でもない。生きることは表現、言葉を使うことが詩。気持ちがいいほど、シンプル。「詞は詩であり、動作は舞踊。音は天楽、四方はかがやく風景画」と論じた宮沢賢治と同じスタンスだ。

新入りグループも詩人認定されたところで、ゾハブは詩の題材を一心にブレストしているポエトリー隊に声をかけた。
「ポエトリー隊よ、ずいぶん頑張っているようだが、ちょっとここで筆を止めて。みんな一緒に、俺の詩を聴いてくれ」

再びゾハブ劇場の幕が開く。第一声の“Imagine”(「想像する」)を聞いただけで、「“Imagine”、キターーーー!」と喜ぶコアファンみたいな生徒もいる。そんな通な生徒も、5分前に詩のクラスに来たばかりのニワカ生徒も、引きつけるパフォーマンス。この人は、優勝をかけたスラムの決勝でも、ゲスト詩人として暖かく迎えられたライブでも、「詩ってなにそれ、おいしいの?」みたいな生徒がいる図書室でも、全力で等圧のパフォーマンスをする人なのだ。だから詩人意識の違いなんて関係なく、みんな彼の詩の世界に染まってしまう。


全身を使って詩の編集作業!?


詩の定義で詩の世界の入り口を通り、パフォーマンスで詩の力を実感したら、今度は自分で詩を作る番だ。ゾハブはパフォーマーからインストラクターへと見えない仮面をかぶり代えた。

第2グループに対しては、先ほどの第1グループと同じ手順でBrain Dump、文学的技巧まで、レクチャーとエクセサイズが繰り返される。だが、第2グループがBrain Dumpをしている間に、ゾハブはポエトリー隊と話し合って、グループポエムの題材を決めていた。第2グループが文学的技巧を学ぶ段階になると、これが二度目となるポエトリー隊に対しては、新しい目的と付加価値をつけてくる。
「ポエトリー隊は、さっき決めたグループポエムのトピックに関する文を、頭韻法を使って書いて」
「ポエトリー隊は、隠喩を使ってグループポエムの題材に関連する文を書いて」
という具合に。

同じ教室の中で複数の学年を受け持つ複式学級において、このように片方のグループが練習問題に取り組んでいる間に別のグループを教えたり、課題レベルをそれぞれの学年グループに合わせて変えたりすることはよく見られる。だが普通は一年間かけるところをで一日でやってしまう光景は、何かものすごい早送りの複式教育を見ているようだった(しかも、2つの異なるレベルのグループを同時に教えたことは初めてだったと、あとでゾハブは告白した)(詩人としてのみならず、教育者としても、ハイレベルな男である)。

そればかりでなく、この第2グループは第1グループより学年が上だったためか、ひと通り基本コースを済ませたところで、ゾハブは両方のグループに新しいエクセサイズを用意していた。

「ポエトリー隊は自分の課題を進めてもいいし、一緒にこの課題をしてもいいよ」と前置きしてから、スクリーンにある写真を映し出した。ニヤリと笑っているかのようなユーモラスな象の写真。
「これを見て、四行詩を書いてみて」
これはつまり、日本人にはお馴染みの大喜利である。

ふと見れば、両グループがそれぞれの課題に取り組む中、ゾハブは図書室の隅で一対一で机を突き合わせ、ポエトリー隊のための個人相談窓口みたいなことを始めているではないか!(英語圏の学校では、これを“writing conference”と呼ぶ)まるで2つの大鍋を火にかけつつ、同時進行でデザートも作る器用なシェフみたいだ。

しばらく窓口で数人の詩的相談にのったあと、 キャプテン・ゾハブは全員集合をかけた。
「四行詩を書いた詩人たち、みんなに発表してくれないか?」

四行詩に取り組んだ生徒たちが自作の詩を発表すると、隊長はいちばん気に入った行を選んでから、前に出て横一列に並ぶように命じた。
「いったい何が始まるんだ?」
という顔、顔、顔。

「じゃあ、左端から順番にその行を朗読してくれ」
総勢8人の詩人が、笑う象に関するバラバラの一行詩を順々に読み、わけのわからない八行詩がそこに誕生した。みんな笑った。
「聞いてたみんな、これがちゃんと意味が伝わる詩になるように、手伝ってくれないか? どう並び替えたらいいと思う? 」

ぽっかーんとしていた生徒たちの目に、みるみる〈なるほど、そういうことか!〉の光がスイッチオンした。並んだ詩人たちが提案し合う。
「おい、お前はあいつの隣りにいけよ」
客席からも、野次のように指示が飛ぶ。
「いや、右端のほうがいいだろ!」

「じゃ、もう一回読んでもらおうか」
ゾハブ先生が言うと、かなりマシになった八行詩がそこにはあった。
「もっと良くならないかな?」
あっち行けこっち行けシャッフルが再び行われた後、なかなか面白い八行詩のラインが立ち並んだ。

ここで、チャンピオン・パフォーマーは助言する。
「朗読の前に、パフォーマンスのコツを教えてあげよう。足を肩幅に広げて立つんだ。背骨をまっすぐ立てて。肩をすぼめず、胸を開いて。頭をまっすぐに首の上に乗せて。これで、いい声が出るフレームの出来上がり。あとは、腹から声をしっかり出すんだ。部屋の奥まで響くように。さぁ、朗読スタート!」

こうして最終的に、素晴らしい八行詩が完成した。そう、この一連のエクセサイズは人体を用いた、詩の編集作業だったのだ。紙上の赤ペンよりも、黒板の説明よりも、はるかにわかりやすい。しかも、テキストの構成力と同時にパフォーマンス力も身に付く、一石二鳥なアプローチではないか(テキスト次第では、詩人を並び替えたら意味が変わるという詩のパフォーマンスにもなるだろう)。少年達がもはや詩人ではなく、詩そのものになったところで、第2ラウンド終了。ポエトリー隊も第2グループも、そしてもちろんゲスト詩人も、ランチタイムとなった。

<後編に続く>

(取材・文:マエキクリコ)


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