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歴史が変わる? 深川の子どもが焼跡で遊んだスケートボード/2020東京オリンピック閉会式に寄せて

「江東区出身の選手がスケートボードで優勝したでしょ。私、嬉しくて」
そう電話口で声を弾ませたのは、『東京人』9月号廃線特集「お茶の水橋で出土した『都電の記憶』」にご登場いただき、昭和20年代の末、都電28系統で通学した記憶を語ってくださった前川峯子さんです。一家5人で江東区白河の同潤会アパートに暮らしておられました。
——男子ストリート部門優勝の堀米雄斗選手ですね。私も江東区民なので、インタビューで「江東区で育って」とアピールしてくれたのはとても嬉しかったですね。
 わたくし(偽)がこう答えたら、前川さんは実に意外なことをおっしゃるのです。
「終戦直後、私たちもあんなスケートボード作って遊んでたんですよ」
——えっ、どういうふうに。
「昔は木場(貯木場)の脇に製材所があったので、そこで板きれをもらって、ベアリング工場の焼跡から掘り出したり、古自転車のペダルの付け根にあるベアリングを外して、車輪をつけたんです」
——ローラースケートが流行した頃、下駄に戸車を打ち付けて手製ローラースケートを作ったという話を聞いたことがありますが、それではないのですか。
「板の四隅に車輪をつけて、そこに乗っていました」
——それでは確かにスケボーですね。どんな遊び方をしたんですか。堀米選手みたいに手すりをガーッと板で滑ったり……。
「まさか。扇橋の道が高くなっているところから板に乗って、坂道を滑り下りていくんですよ。そうすると、同潤会アパートの交差点まで転がるんです」
——大横川にかかる扇橋から三ツ目通りの白河三丁目交差点まで200メートル以上ありますね。けっこう転がるもんですね。いまの若者がやっているように足で漕いでスピードを出したりしたんですか。
「それはしませんでした。ひとりでに滑っていくのを楽しんでいました。出発点の橋のたもとには交番があって、髭を生やしたお巡りさんがいて『女の子は危ないよ』と言うので、私は乗りませんでした。白河三丁目交差点は当時ロータリーがあって、ちょうどそこで、すべってきたボードが止まるのです」
 子どもたちはボードを持って、またぞろぞろと列を作って扇橋に。何度も何度も繰り返し滑っていたのだといいます。
 それはいつのことなのか。伺ったところ、身体を壊した母親のの代わりに、幼稚園入園前後の年齢になった弟さんを子守しながらスケートボードを眺めていたというので、1948(昭和23)年か翌年頃と特定できました。スケートボードの歴史を調べると、1940年代のカリフォルニアで、木の板に鉄製の戸車をつけたもので遊んだのが始まりと書かれています。遊び方こそちょっと違うものの、もしかしたら江東区のスケボーが、カリフォルニアよりも早かったのかも知れません。
 9号台風の雨が上がってすぐ、わたくしの自宅から歩いて15分ほどの扇橋に行ってみました。望遠レンズの圧縮効果を使っても高低差はこんなもの。200メートルで高低差5メートルあるかないかといったところか。ベアリングって、ころがるものですねぇ。ただし、昭和30年代以降の激しい地盤沈下、護岸工事や橋の架け替えがありますので、勾配は当時のままとは限りません。
堀米選手の優勝が、なにか故ないこととは思えない、もしかしたら江東区の因縁かも知れないと思わされる電話でした。もし、この遊びについてご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひお知らせください。(偽)
ちなみに、スケートボードの公式の歴史はこちら(日本スケートボード協会)
http://www.ajsa.jp/info/gaiyo/History.html

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