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ひめたることのよわりもぞする

ひめていることは、わるいことだろうか

去年の夏の終わり、文化祭の打ち上げカラオケに参加したときのこと。
まあまあ大規模な集まりだった。みんな思い思いに好きな曲を予約して歌った。私は、催促されるまで黙って聴いていようと思っていた。単純に人前で歌うのがいやだった。

おまえも歌え、といよいよ急かされ、曲の羅列を繰って歌う曲を探し始める。テンポは速い方がいいよな。みんながノれる曲。みんなが知っている曲。なにより、個人的な趣味を絶対に露呈しない曲にしなくては!
そうやって捻り出したのがaikoの「カブトムシ」だった。別に速くもなく明るくもないのになぜかここへ辿り着いてしまった。でも割とウケたのでよかった。

ほとんどの人が平成・令和のミュージックシーンを席巻した人気曲を歌うなかで、ボカロなどのネット音楽ばかりを歌っている人がいた。
誰も元ネタがわからない。みんな雰囲気でノっていた。「まじでなんの歌〜?」「え〜、しらん笑笑」みたいなうすら寒い言葉が聞こえたりもした。思い出すだけで身の毛がよだつようである。

けれども。彼女の華やいだ声、瞳のかがやきといったら。

私が細心の注意を払ったこととまるで逆の振る舞いを彼女はしていた。誰にもわからないようなマイナーな曲を入れる。自分が歌いたいものを歌うためならば他の参加者を置いてけぼりにする。それが果たして「良い」ことなのか、ということは抜きにして、彼女は私のできなかったことをした。

私だって、本当に歌いたいのはカブトムシじゃなかった(なんと失礼な。カブトムシも大好きです)。神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」とか、「夕方のピアノ」とか歌えるもんなら歌いたかった。

もし私と彼女が漫画のキャラクターだったらば、彼女は大ゴマ、いや見開きで描かれるはずだ。私はそれを眺めているモブ。大衆に順応することを選んだ凡人だ。この二者に対比構造が生まれて、読者は彼女の姿に心動かされるのだろう。

多様性、多様性と騒がれるようになった今日の社会において、自分の本当の思いを表に出すことが正しいとされつつある気がする。カミングアウト。自己表現。「言わぬが花」日本古来の文化は否定され、思っていることを率直に言語化する欧米式のやり方がもてはやされている。

では、本当の好きな曲を胸に秘めたまま、人気曲を歌う私は弱いのだろうか。彼女のように、「本当の」自分を、曝け出すべきだったのだろうか。

どちらの方が優れていて、劣っているか、などと決めてしまうことがいちばんなによりもいけないことだとも思う。
誰かに話したり、表現したりしたいあなたも、胸のうちにそっと秘めておきたいあなたも、同じように大切にされていなければならない。
それが本当の多様性ではないのか。

この先、何かを「ひめておきたい」と思う人が、不本意に傷つけられるようなことがないようにと、今はそう願うばかりである。



私はあの場所で、「ロックンロールは鳴り止まないっ」ではなく「カブトムシ」を選んだ。
あの空間、あの空気を、みんなと共有することにこそ私は価値があると考えた。

けれど、ボカロを歌った彼女の姿、その心から楽しそうな横顔を、私はきっと忘れられない。




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