メモです(性欲と自尊と服のこと)

Candy says, “I've come to hate my body. And all that it requires in this world. (…) What do you think I'd see if I could walk away from me?”

たまたまThe Velvet Undergroundを聴きかえしていて、例えば“Candy Says”の歌詞が耳に入った時に心の底からたまげてしまう。Lou Reedはよくわからない人で、とにかく気難しくて性格は最悪だという話はよく聞くし、マッチョなイメージで売っていた時もあるし、しかし何はともあれ、時おりこの曲や“Perfect Day”のように天使のような優しさと残酷さで人の心のほんとうを書くことがあって、そういう曲に出会うと敬意を抱かずにはいられない。この人にしか書けないものがあったのだな、と思う。ついでながらちょうど最近翻訳が出版されたというアンソニー・デカーティス(奥田祐士訳)『ルー・リード伝』(亜紀書房、2023)をうっかり買ってしまった。

『伝』はこれから読むのだが、それでも歌詞を読んで(あるいは彼の生き方を漏れ聞く中で)感じるのは、この人も自分が自分でしかないことの苦しさを本当に痛いほどに分かっていたのだなということで、そこにわたしは強く自分を感じる。

(ちなみに“Candy Says”には、Anohniや(Portisheadの)Beth Gibbonsのカヴァーがあって、どれも超絶に良い)

自分が自分でしかないことの痛みや苦しみについて、わたしはよく性欲の問題経由で考えることがある。わたし自身はノンバイナリーだと思っているしそうありたい希望があるのだが、性欲によってどちらかというと男性側に留め置かれていて、そのことをとても残念に思っている。別の言い方をすれば、男性的な性欲の持ち方を強いられているような感覚があって、それはとても嫌なことだ。主に男性側の性欲が加害的に働く場合は多いし、搾取的な構造に加担していることの自覚がずっとある。男性を降りたいというのは、そういう自覚を背負いつづけるのはしんどいことなので、そこから抜けるために、ということもあるかもしれない(だとしたらそれ自体が最悪なことなのだけど、今は倫理の話ではなくて、まずはわたし自身が事実としてこうであってしまっているということについて書いているのでよろしく)。

大学に入って自分一人で物事を考えはじめて以来、なんとなくずっと性的マイノリティをめぐる諸問題に関心を持ちつづけてきたが、そのモチベーションが当時の自分にはよくわからなかった(欲望の持ち方などからして、明らかに自分がマジョリティサイドの人間だということはぼんやりと分かっていたから)。今の言葉でいえば、どうやらそこには、自分自身は(不本意ながら)マジョリティの側に属するとしても、そこにいることが非常に苦しく、こんなに苦しいのは何か違う、間違っていると思っていることがまずあった。自分が少しでも楽になるためには、男・女の二種類だけに人を分けて、その中で番うことを前提とする社会は違うでしょう、苦しいでしょう、ということを言う必要があって、そのための言い方と語彙を性的マイノリティの権利を求める運動が持っていた、そこに助けられきたということもできるかもしれない。

とにかく、こうした感じ方も理由の一つとなって、性欲に正直な作家……自分の性欲を厄介なものとして引き受け、作品のうえでそれを相手に苦闘する作家に惹かれるし、尊敬する気持ちがある。自分の仲間を見つけたという感じをもらえるから。

プラトーノフの魅力の一つもそこにあって、「Anti-Sexus」という作品や脚へのフェティシズムなどの(必要以上に)露悪的な部分もそうだけれど、彼の作品でまずは「去勢者」のイメージが色濃いことはわたしに大きな好感を抱かせる。他にも例えば「インポテンツ」が描かれることもある(「ポトゥダニ川」など)。帝国主義やファシズム、摩天楼やソヴィエト宮殿など、世界的にとにかく男根を立てたがった時代において萎えたペニスを描くこと。こうしたプラトーノフの「浮き方」は、例えば西洋哲学史におけるエマニュエル・レヴィナスの「浮き方」に似たものを感じる。彼もまた、哲学が伝統的に想定していた「聡明・健康なヨーロッパ人男性」モデルとは離れたところで哲学を構築した人だった。(ちなみにロシア語でペニスをchlenというが、chlenには「構成員、メンバー」という意味もある!語源的にどうなのかは知らないが、ザ・ホモソーシャルという感じがある)

大江健三郎が好きなのも根柢にはそういうところがあると思う。「セヴンティーン」などの初期の“匂い立てる”性欲の感じも好き(……というか、最初は拒否感を持つのだが、その拒否感の対象は大江の文章に対してというよりは、自分に跳ね返ったうえでのどうしようもない性欲に対するものだと思うので、そうした拒否感を喚起する力のある文章として大江の文章が好き、という言い方が正確……)だし、中期のより「真面目な」作品にしてみても、性欲からは逃れようとしていないところが好きだ(それはカーニヴァル的仕掛け、のようなものというよりは、もっと本能的に出てしまうもの、だと思う)。それから、ここ数年で性欲についてもっとも真摯に真正面から取り組んでいる作品として、押見修造『おかえりアリス』(2020〜連載中)を挙げておきたい。まだ完結していないので進み方を今後も注視していきたいのだけれど、この作品は日本の精神史に残ると思う。いや、残らなくたってぜんぜんいいが(なぜなら作品の価値はそれとは関係がないから)、わたしにとってはこの作品と出会えたことはとても大きな意味がある。

男性とみなされる作家の作品だけを挙げたが、それは性欲の問題について、わたしは生きる上で選ばされる場合には男性を引き受けている自分自身から離れて考えることができないからだ。上に挙げた作家たちは性欲(あるいは男性[*アクセントはヤキニク・・・・ではなくロンドン・・・・]と言ってもいい)とその加害性について自覚しながら、自分の問題として取り組んでいるように思い、そこにわたしは自分との近さを感じている。

(そういえば、小学生の頃に「トリビアの泉」という番組があって、そこで「いちばん面白いギャグを考えてみる」という企画があった(と思う)。専門家による結論として、大声で「自分には性欲があります」と主張する、という解が挙げられていた……ことをなぜか思いだした)

性欲というのはまことに下劣な感情であって(うーん性欲そのものがそうとは言い切れない気もするし、慣習的に作られた部分もあるかもしれないのだけれど、とにかくわたしがわたしに向ける主観的な感情としてはそうなのだ)、性欲の持ち主であることを恥じる気持ちがある。そうした気持ちの持ちようは自尊感情にも影響する。自分自身がまことにどうしようもない人間であるように思え、生きていてすみません、という感じを抱くことにもつながる。自尊感情が低いと、世界における自己提示に困難を感じる。

で、この年になるまで「服」というものは他者に見せるものためのものだと勘違いしていたために、自尊感情の低いわたくしとしては服にお金をかけることを自分自身に許せないできた。ところが、実際のところ服というのは、自分のために着るものなのだった!というのが、ここ数年の大きな発見である。この気づきへの間接的な影響として、小野原教子さんの書き物や川野芽生さんの服をめぐるエッセイを読んだことがあるかもしれない。こういう気づきだとか、年齢的にもう自分は自分でしかありえないのでもう覚悟を決めて自分であるしかないというような覚悟とか、翻訳の仕事を通じて少しは自尊感情が人並みになってきたとかそういうことがあって、服にお金をかけても大丈夫!かもしれない……と最近は思えてきたのだった。

服は楽しい。自分自身はどうしようもない存在であるかもしれないが、そうありたい自分をパフォームする手伝いをしてくれるのが、実は服だったりメイクだったりするのだ。加えて、着たい服ができてきたということも他方にはある。自分の好んで買う(一目でグッとくる)服は、ジェンダーに縛られない服(語弊しかないが「去勢的な服」と言ってもいい)、身体(より具体的に「輪郭」と言ってもいいかも)に揺らぎを生じさせる服が多いのかもしれないと思っている。オノマトペでいえば、ふわっとしたりたるっとしたりゆらっとするのが好きだ。

無印のウィメンズやMUJI Laboは、メンズ服の外に手を出す時にハードルを下げる役割を果たしてくれて、それはなかなか他の会社が成しえない素晴らしい仕事だと思う(同じ大規模チェーンでも例えばUNIQLOの服はもう少しジェンダー表現がパキッと分かれている印象がある)。昨年だったと思うけれど、Yohji Yamamoto(特にY’s)の服と出会えた時は本当に嬉しかった。それは確か出張で徳島に行った時のことだったので、わたしは徳島(徳島アミコ)になぜか恩義を感じている。それから、MIKAGE SHINとかHATRAとかの服に出会って以来、毎シーズンの新作発表に本当にわくわくさせられている。メイクの方でFIVEISM × THREEが出てきてくれたのも大きいだろう。なんだか人生初心者という感じで気恥ずかしさがあるのだけれど、こういう経験は本当に初めてなのだ。こうした服の作り手に「助けられた」というのが、自分の正直な実感になると思う。

そういうこともあって今は服が楽しくて、今月は大阪・中津の服屋さんを少し覗くことがあった。中でも特にitocasiというお店に、出会ってしまった幸福を感じた。服一枚一枚について話を聞きながら、服の人(服屋さんやデザイナーなど)も芸術家なのだなと思った。誰にも気づかれなさそうな細部にこだわるデザイナーはかっこいいし愛おしいと思う。自分の好きな服について滔々と語る服屋さんはかっこいいし愛おしいと思う。変なこだわりを持ち、そこに妥協しない人はかっこいいし愛おしいと思う。選択の余地なく、ただただ愛情によってその仕事に巻き込まれてしまっている人は美しく、かっこいいと思う。

結局何の話だかわからなくなってしまったが、自分の中では以上のことはゆるやかにつながっていて、自分にとっても大事な気づきと思えて、だから忘れないように書いておきたかった。

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