認知症カフェでの会話から考える“終の棲家”~自宅or高齢者向けの施設?~#008
Jaroカフェでは、毎月第3土曜日に『\認知症も予防できる/つながるカフェJaro』を開催している。そこでは、主に下記の内容を行っている。
リハビリスタッフによる認知症予防のためのコグニエクササイズ
医師による認知症のお悩み相談コーナー
月替わりのお楽しみコーナー(ドリームマップ制作、カップケーキのデコレーション、薬剤師による認知症の薬についての説明、管理栄養士による健康を維持するための栄養食品の紹介、社労士による成年後見制度の説明、現役警察官に教えてもらう防犯対策など)
そんなつながるカフェで、80代~90代のご高齢の方が参加してくださったときに、こんな会話がされていて非常に興味深かった。
参加者のおひとりの方が、90歳になっても自宅で過ごし、自分でお買い物に出かけたり食事を作ったりと、家事全般を行っていると話されていた。
すると、別の参加者で80代の方が「私はサ高住(※サービス付き高齢者向け住宅)で暮らしているんです。でも、今は家を売って、サ高住に入るんじゃなかったと思っています」と後悔の気持ちを教えてくださった。
その参加者の方いわく「自分で食事を作らないから、やり方を忘れてボケてしまう。お買い物にもいかないので、運動量も減ってしまう。何より、ごはんを食べたあとに、やることがなくて持て余している」とのこと。
私は、たとえば自分が高齢になったときに、サ高住や老人ホームに入ることは有効な選択肢のひとつだと思っていた。年齢を重ねていくと、暮らしの中で出来ないことも増えてくるし、相談できる誰かが常にいてくれるのもありがたい。それに、食事の提供をしてくれるなら、自分でわざわざ作らなくていいし、快適に過ごせると考えていた。
ところが、こちらの参加者のお話を伺って、安心や快適ばかりが幸福ではないんだなと気づかせてもらった。何より、自分が住み慣れた場所を離れて施設に入ると、それまで培ってきたご近所とのつながり(社会的な資源)もなくなってしまうんだなと。
参加者の方が「生活に支障がないなら、多少ボケてもいいから、自分がやれることはずっとやっていったほうがいいわね」とおっしゃられて、非常に示唆に富む言葉だと思った。
今後、日本では後期高齢者がさらに増加し、それに伴い認知症患者も増えると予測されている。
ボケない社会をつくるのではなく、多少ボケてもいいから、それを許容して一緒に暮らしていける社会であるほうが、当事者の幸福度も高いのだと実感した。
2024/1/8 日記
冬休み最終日。娘の宿題や持ち物の最終チェック。
子どもたちが寝たあと、夫と子育ての話になる。私と夫では、子どものころの教育方針が違い過ぎて、もはや異文化コミュニケーション。私がトップダウンの昭和型星一徹方式なら、夫はボトムアップの令和型ありのままのアナ雪方式。たまにこうしたすり合わせや意見交換を行わないと、日常の中の小さな違和感が溜まっていったりする。
めっちゃマジメな話の途中で、急に夫が「セロリだ!これはセロリだね!!」と北島マヤがヘレンケラー役で感銘を受けたみたいな状態になる。そのあと「♪育ってきた環境が違うから好き嫌いはイナメナイ~夏がだめだったりセロリが好きだったりするのね~」と歌い出す。なんでやねん!と思いながらも、なかなか面白くて、とりあえず一緒に歌っておいた。マジメな話のときほどユーモアって大切よねー、と改めて思わされたひとコマ。
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