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劇場版スタァライト考察:神楽ひかり版wi(l)d-screen baroqueという視点

 『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト(以下:劇ァ)』の中で際立って異質なシーンが存在していたことを観劇した舞台創造科の皆さんも気づいたと思います。冒頭、トマトが弾ける様子から始まり、表題が表示されるまでの十数分のシーンです。冒頭のシーンだけは時系列も不明ですし、場所もどこなのかはっきりしません。そして何より、抽象的な内容が多すぎてイマイチ掴みどころがないこともその要因のように感じます。
 今回はその冒頭のシーンについて個人的に面白い解釈を思いついたので紹介します。それは『冒頭のシーンは神楽ひかりが起こした神楽ひかり版wi(l)d-screen baroqueである』です。
 でも冒頭のシーンとwi(l)d-screen baroque(以下:WSB)ではやってることも結果も違うじゃないかと思いますよね。

”僕が思うにこれは、大場ななと神楽ひかりの脚本力の差で片がつく”

wi(l)d-screen baroqueと”私たちはもう舞台の上”の関係

wi(l)d-screen baroqueが意図するもの

 さて、神楽ひかり版WSBと題したからには正規版WSBについて軽く僕の解釈を話しておく必要があります。『新たな最終章』、『私たちはもう舞台の上』この二つがキーワードになってきます。
 ここではWSBについて語源からくる意味の解釈などは無視するものとします。あくまで、『演目』としての意味について考えていきます。
 WSBとは「戯曲スタァライトの終わりの続き。新たな最終章」だとキリンの口から告げられています。『彼女たちが始めたレヴュースタァライトを終わらせるための章』ということです。”終わらせる”ということは同時に新しい何かが”始まること”でもあります。では、どのようにしてスタァライトは終わりを迎えるのか。それは決起集会のシーンに答えがありました。

『囚われ、変わらない者はやがて朽ち果て死んでいく』
『生まれ変われ、古い肉体を壊し──』
『新しい血を吹き込んで』
『今いる場所を明日には超えて』
『辿り着いた頂に背を向けて』

第101回聖翔祭『スタァライト』脚本第一稿より

”何かを達成できたとしても留まることなく、常に新しい目標に向かって進み続けよう”というメッセージがここからは感じるかと思います。『新しい何かを見つけ先に進む』状態になることを劇中では『私たちはもう舞台の上』と表現していました。そして大場ななは皆殺しのレヴューという形でこのメッセージを九九組の7人に伝えるわけです。
 その結果どうなったかと言うと皆さんご存知の通り、『私たちはもう舞台の上』を理解した舞台少女たちはそれぞれがそれぞれの執着を捨てるために最後のレヴューへと赴きます。それによってスタァライトに留まる理由を失くした彼女たちは『私たちはもう舞台の上』になった訳です。そして上掛けを空へ飛ばし次の舞台へと歩き始めましたとさ──お終い。

 ちょっと関係ないですが、劇ァのラストで九九組が上掛けを空へ飛ばすシーンはスタァライトからの卒業にも感じられましたよね。作品の構成自体が僕らに対してもこの作品の終わり、卒業だと言いきかせてきているような感覚さえします。でもそれは悲しいものではなく、頑張る人の背中をそっと押してくれるそんな優しい卒業でした。

”私たちはもう舞台の上”の条件

 『私たちはもう舞台の上』を理解したとか、『私たちはもう舞台の上』になったとかどういうこと?って感じですよね。分かります。僕は『私たちはもう舞台の上』を状態を表す言葉と解釈しています。どんな状態なのかそれは次に説明する『過去への執着を捨てること』『次の舞台へ進む意味をみいだすこと』の二つです。

それはWSBにも必要な要素

 前項で話したようにWSBによってもたらされるべき結末は留まることを全く良しとしていません。
 まぁ、舞台少女たちは留まってしまうとやがて朽ち果て死んでいく運命なので、ここから打破しない限りWSBは意味を成さないということです。どうにかして先に進んでもらうしかありません。立つ鳥跡を濁さず。その場に捨て置くものは捨て、この身新たに次へと羽ばたいていくことが『私たちはもう舞台の上』になるためには重要なことです。この結末を迎えさせるために舞台少女たちに必要なことは『過去への執着を捨てること』『次の舞台へ進む意味を見出すこと』だと考えています。WSBという手法はこの”私たちはもう舞台の上にさせるもの”ということになるので、『WSBする』みたいな動詞になりそうですよね。

女子生徒A「ねぇ聞いてよ。Bちゃんがまだ元カレのこと忘れられなくて未練タラタラらしいよ」
女子生徒C「え〜まだ? 他にいい男なんていっぱいいるのに。もう仕方ないな、ちょっとWSBってあげるか!」

あり得たかもしれない一般JKの会話

みたいなね(それはおかしい)。
話が逸れましたが、WSBと”私たちはもう舞台の上”は解法と答えの関係です。まるで関数のように表すことができます。

f(x) = y      
WSB(舞台少女) = 私たちはもう舞台の上

冒頭のシーンを紐解く

神楽ひかりは何を考えていたのか

 改めて冒頭のシーンの話に戻りますが、重要なのはこの時神楽ひかりは何を考えて、なぜこのようなことをしたかです。
 そのヒントは『再生産総集編 少女☆歌劇レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド (以下:ロロロ)』にありました。ラストシーンで神楽ひかりは愛城華恋への言葉としてこのような発言をしています。

「運命の舞台まで追いかけてきてくれてありがとう華恋」
「でも私たちの舞台は──まだ終わってない」
「私たちはもう舞台の上」

 ロロロによって提起された問題は前項でも話した通り「完結したことに満足せず、次へと歩みをすすめよ」ということでした(なぜなら観客がそれを望んでいるからです)。故にこの時の神楽ひかりは愛城華恋の生存(愛城華恋を次の舞台へと進ませること)に意識が向いていた可能性がとても高く、そのための方法を考えていたとすることもできます。

必要な要素は満たしていた冒頭シーン

 それを踏まえて冒頭のシーンを紐解いてみます。まず神楽ひかりは「一緒にはいられない」「今こそ塔を降りる時」と愛城華恋に語りかけていました。”今こそ塔を降りる時”は”今いる場所を明日には超えて” ”辿り着いた頂に背を向けて”と文脈は同じですよね。辿り着いた運命の舞台から降りてまた新たな舞台へということです。”一緒にはいられない”もその続きの話で、それぞれがそれぞれの舞台へと進むのですから一緒には当然いられません。しかし、ここで愛城華恋は「分からないよ」とあるようにその言葉の意味を理解することはできていませんでした。
 そして星罪の塔は爆破と同時に崩れ落ちていきますが、これを僕は”スタァライトへの執着の崩壊”を表したかったのではと考えています。留まっていた運命の舞台を破壊することで先に進むことを促したのです(”巣を壊せばまた新たな巣を作るだろう”というようなとても暴力的解決)。

 これによって順序は違えど『過去への執着を捨てること』と『次の舞台へ進む意識』への訴えは行っていますから、WSBする要素は満たせています

 その先の展開では約束タワーから吹き出す大量のポジションゼロ、瓦礫の上で口上を口にする神楽ひかりです。ここでの神楽ひかりは”華恋に伝えたい要素は伝えた。だから私も次の舞台へ進もう”そういう意図に僕は見えます(約束タワーから吹き出すポジションゼロは神楽ひかりの運命の舞台への執着からの脱却を意味するのかなと思っているのですが、いろいろな話を聞いているとそうでもないような気がしているので、ここは要検討かなと考えています)。

事の顛末

 「私の役は終わった」と認識した神楽ひかりはロンドン行きの列車に乗って愛城華恋の元を去ったのです。この神楽ひかりの手法によって求められた答えはみなさん知る通りこうです。

「なぜ、行ってしまうのだ。友よ」

 彼女、愛城華恋の心には神楽ひかりの思いは届いていません。SNSで愛城華恋宛に送った「私たちはもう舞台の上」というコメントにピンときていないところからもそれは伺えます。

 WSBの失敗です。

 愛城華恋は全く”私たちはもう舞台の上”になっていないどころか理解すらしていません。愛城華恋の生存(愛城華恋を次の舞台へと進ませること)に対して衝動的に行動し過ぎていました。どのようにすれば愛城華恋が”私たちはもう舞台の上”を理解し、その状態になれるかまでは考えていなかったのかもしれません(しかも満足気にロンドンへ旅立つのが怖いところ)。

 これが冒頭のシーンの事の顛末なのではないでしょうか。

神楽ひかりと大場ななの違い

大場なな先生による『私たちはもう舞台の上講座』

 なぜ神楽ひかりのWSBは失敗したのか。それは端的に言えば愛城華恋に”私たちはもう舞台の上”であることは話しても、それを理解させることも、そうなるようにもできていなかったからです。

 対する大場ななはどうだったかというと、まず皆殺しのレヴューで九九組のメンバーが自らの意思で理解するように過激ながら、ちょうどいい塩梅で、かつ何度も繰り返し言葉にしていました。これが”私たちはもう舞台の上”の理解フェーズです。

「私も自分の役に戻ろう」

 「塔の導き手」として筋書きを演じ、そしてその結果が確かに九九組の皆に伝わったと確信したからこそ自分も次に進むために”偽りのない自分”へと役を戻したのだと思います。

 その後は皆さんご存じの怨み・競演・狩り・魂のレヴューです。大場ななは”私たちはもう舞台の上”理解フェーズは自らの手で行いましたが、”私たちはもう舞台の上”実行フェーズはそれぞれの舞台少女たちに委ねています。まるで教科書で公式を学ばせ、練習問題を自力で説かせて知識にさせる、教育のお手本みたいな筋書きです。

この脚本力、筋書きの作り方の差が成功と失敗を分けた要因だと考えています。

 改めて考えると冒頭のシーンはWSBの要素は満たせていたものの、神楽ひかりの筋書きはかなり一方的なものでしたよね。愛城華恋の言葉を一方的に突き放すようなトゲのある言葉に、華恋の気持ちを無視するように一方的に破壊される拠り所(約束タワー)……。

 大場ななも態度こそ一方的で合ったとはいえ、いかにして伝えるかという点でやはり優れていたと思います。

神楽ひかりはWSBを知るのが遅すぎた?

 神楽ひかりがWSBという言葉を耳にするシーンはずっとずっと後のことでした。ロンドンの地下鉄駅構内でキリンに言われた言葉がそれです。ロロロ内では神楽ひかりが直接”WSB”を耳にするシーンも口にするシーンも存在していません。きっとあの時大場ななは「舞台と観客が望むのなら、私たちはもう舞台の上なんだよ。ひかりちゃん」とでもいったのではないでしょうか。つまりそれまで神楽ひかりはWSBという言葉を知らなかったのです。
 この状況はつまりこうで、”神楽ひかりは問題もその答えの状態も知っている。しかしその解法を知らない”状態だったと考えても不自然ではありません。前述したようにWSBと”私たちはもう舞台の上”は解法と答えの関係です。代入される舞台少女の数だけ違う”私たちはもう舞台の上”があるということです。愛城華恋には愛城華恋の”私たちはもう舞台の上”にたどり着くためのWSB式が必要なのであり、神楽ひかりが起こしたWSBは間違いだったのでしょう。そのために冒頭のシーンはあのような結末を迎えたのだと思います。

与太話

『大場ななの想定外:急遽組み込まれた愛城華恋』

 WSBされなかった愛城華恋を大場ななは想定していたのでしょうか? 僕はしていなかった可能性もあるのではと思ってます。

 冷静に考えると愛城華恋だけ別の列車に乗って役作りに飛ばされるというのは不思議に思います。これは大場ななは愛城華恋を皆殺しのレヴューに組み込むことを想定していなかったからだと思います。

 ロロロの最後のシーンで大場ななは神楽ひかりのことを待っていました。これは”私たちは舞台の上”であることを教えたかったからではないでしょうか。愛城華恋に”私たちは舞台の上”を自覚させるその役回りを神楽ひかりに託したとも考えられます。
 しかし実際託してみたらどうでしょう。その役回りに失敗しているではありませんか。聖翔で星見純那と愛城華恋が遥かなるエルドラドの稽古をしていた際、「行ってしまうのだ。友よ」と大場ななが発言できたことから、神楽ひかりと愛城華恋の一件を知っていたと考えていいと思います。

 皆殺しのレヴューを成功させるためには舞台少女自身の煮え切らない感情が必要になります。「目指したいものはある……だけど」そんな感情に喝を入れ、強引に背中を押すことで”私たちはもう舞台の上”を理解させるからです。そうなると愛城華恋は運命の舞台に執着し、神楽ひかりに執着しているとはいえ、夢を叶えきって完全に燃え尽きた状態になっていました。これでは想定していた筋書きに無理矢理組み込んだとしても愛城華恋に”私たちは舞台の上”であることを理解させることは不可能だったと考えます。そこで急遽大場なながとった策は「別の筋書きを用意する」という事でした。

 そのため愛城華恋だけが違う列車に乗り、神楽ひかりが来るまでの間、執着の原因という名の過去回想を巡りながら役作りの時間に割いたのです。これを可能にしたのは二刀流である大場ななだからこその策だと思います。
 このアドリブ力もまた大場ななの脚本力ともいえます。

メタ的な話

 メタ的に冒頭のシーンを考えてみると、観客である我々舞台創造科も所見ではあのシーンが持つ意味を理解することはできなかったのではないでしょうか。ある意味愛城華恋の追体験のようです。少なくとも自分は全く意味が分かりませんでした。「なんだこれ??」そんな疑問を抱かせながらも”今こそ塔を降りる時”という言葉で「何かが終わり、何かが始まるんだ」そんなぼんやりとした概念的な理解の種が撒かれていたのだと思います。

 その後の皆殺しのレヴューと決起集会が「私たちは舞台の上」という言葉の意味を明確に理解する要因となりました。作中独特の表現である「私たちはもう舞台の上」が一切浮く事もなく、しっかりと観客の中に刷り込むことができたのはこの冒頭のシーンと皆殺しのレヴューというダブルクッションがあったからであると考えています。

 それによって観客は各レヴューの間「私たちは舞台の上って何?」という疑問を抱くことなく、レヴューの本質「彼女達は何に執着し、何を捨てこれから何をしたいのか」というWSBの要素にしっかりと向き合いながら観ることができていたと思います。

 1時間59分59秒という時間の中にこれだけ膨大な量の情報を詰め込みながらも、表現が伝わり過ぎず、伝わらな過ぎない良い塩梅に仕上がってますよね。回数を増やす度に程良く理解が進むような綺麗な学習曲線を描いているそんな作品に思います。

おわり

 冒頭のシーンについて、たぶん誰も考えてなかった新しい視点で解釈することができたのではないでしょうか。これが正解だという気はしませんが、冒頭シーンを目的論的な視点から神楽ひかりを紐解いていくことで新しい解釈を生み出せたような気はします。
 謎多き冒頭のシーンだからこそ、いろいろな考え方があり、いろいろな解釈ができる余地があるかと思います。

 この解釈が舞台創造科の皆さんにとって何かの一助になれば幸いです。

 ではまたの機会に。

初稿 - 2021/12/09
再生産 - 2023/03/24

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