人間になりたかった私
数日前に書いたこのnote。この続きの話。
のびさんとのセッションがスタート。
水瓶座新月〜乙女座満月の体感や流れやテーマに触れ、今回のセッションであるソラリタの話に入っていき、冒頭で言われた今年のソラリタの最終テーマは 「 宇宙人でいきましょう!」 だった。
… ウケる😂わかる…!
乙女座満月を超え、無になった私は、あぁもう世間にあるルール的なものに則って生きることは出来ないんだろうなぁ。ただ私であるしかできないんだろうなぁ。私として確立するしかないなぁ、、と思っていたのだ。
宇宙人になりたい訳でも、自分が宇宙人だと思っているわけではないが、私のこの状態/感覚を表すならそれは宇宙人になるんだろうなという感じ。
そして私の中には「"普通 / 当たり前 / 常識"に合わせるためにかなりの労力を使っている」という感覚が前々からあった。
だからセッションで「宇宙人だね」と言われて、「ですよね!」と思う私が昔からいたし、人と違うということが証明されて安心している自分もいた。
宇宙人といっても"ぶっ飛んでる人"というよりは、"独自ルールのある人種"みたいな感覚に近い。のびさんには "私を表す言葉=Being / 宇宙人" と言っていただけて、そうそう!Being!としっくりきた𓂃 𓈒𓏸
ただそこにある。ただそこにいる。
それがしたいことだなと思うくらい、在り方なんだろうなと、在り方が大切だよなと思っていたこの半年だった。
☽⋰
自分が人と違うと感じて周りに合わせるようになったのは中学生のころ。
みんなの話していることが分からなかったのだ。私は雑談ができない。
盛り上がっていることは分かるが、何に対して・どこに対して盛り上がっているのかがわからない。
私からしてみたら中心がないのに意思疎通して盛り上がっている感じに見える。でも中心が分からないから話に入れない。
なんなら、その盛り上がっている人達はそれぞれ別のものを中心において話しているようにすら見える。分からない世界だった。
だから私は「みんなはどんな思考回路で生きているんだろう?」「どんな思考回路でその発言にたどり着いているのだろう?」と相手を観察し、その思考回路を分析するようになった。
そのほかにも、自分の感覚や主張は人と交わらない、私が発言するとその場が静まる、相手の本心が分からない、言ってることと思っていることが違うように見える、などなど……
人と重なる部分より重ならない部分が多く見えていた私は、自己主張することを辞め、みんなと一緒にいる術としてYesマンになることを選択した。相手に合わせれば全てが解決する!と思ったのだ。
学生時代は何とかそれで乗り越えたが、弊害はたくさん起こっていたし、楽しさよりも苦しさの方が圧倒的に多い時間だった。
社会人になっても私の中の"わからない"は消えることなく、ただそこにあるものを受け入れて、そういうものだと認識してこなしてきた。
幸いこなす能力はあるので、理解出来れば問題なく仕事はできるのだが、先読みやおもてなし、会議の議題から質問したり役割を感じ取ったりすることは出来ないので、私はこれでいいのだろうか?大丈夫だろうか?なんでみんなはそんなに全てを知っているのだろうか?と不安は尽きなかった。
☽⋰
人間になりたくて、人間と同等に生きたくて、人間の世界を知りたくて、必死に人間に合わせてインストールしていっぱい考えて調整して生きてきた。人間になるために必死だった。
でも人間は、私が必死でやっているこれらのことを当たり前にできるらしい。それが自然で、生まれた時からインストールされている装備らしい、と最近気づいた。
人生をかけて、生きる中で、習得してきたスキルでは無いらしいのだ。自らインストールしたものではないらしいのだ。
びっくりすぎる。
みんなが当たり前にできること、学んだら自分の人生に活かして発展させていけること、将来のことを考えたり生きる道を考えること、そうやって積み重ねていくことが私にはできない。
今まで経験したことが生かされていないかと言ったら嘘になるし、私の中に蓄積されたものはたくさんある。
それでもそれは 「今」 や 「点」 の連続に過ぎなくて、自然と線になるものでは無い感覚。線にするためには労力がいるし、線にしたからと言ってそれをやりたいかエネルギーをかけたいかと言ったらそうならないことの方が多い。
「今」が終わったら全て終わりなのだ。
そんな世界を生きている。
☽⋰
少なくとも15年以上、私は人間になろうと頑張っていたし、私は私を探していた。人間としての私を探していて、人間になるために人間らしい理由を探していた。
今これを書いて思ったけど、私にとって人間になることは、「何者か」になることだったんだなぁと思った。
"何者にもならなくていい。ただ自分であればいい。自分を知って自分になる。"
それをしたくて生きていたけど、結局何者かになろうとし続けていたらしい。
それでも生きる中で、 「何者かになる」 という言葉は同じでも、その形は変えてきた。自分にもどるプロセスは歩んできた。
学生時代に何者かになろうとしていた時は、私ではない別の自分になろうとしていて、自分の装備はフル無視で別の装備をインストールしようとしていた。
でもそれではダメだ、それは必要ないと気づいて、「自分」 であろうとした。自分を取り戻そうとした。
その中で、この3~4年は 「人間としての自分」 になろうとしていた。自分に近づいてる感覚はちゃんとあった。でもどこか一致しきらないのも事実で、でも一致する場所があることは分かっていて…。見たくない自分・隠している自分がいるのかなと思っていた。
それがこれ。そもそも人間じゃないってことだった訳だ。(いや、人間なんだけどね?でも持っている装備が明らかに違う感じなのよ)
よくここまで頑張ってきたな〜と思うし、よく死なずに生きてきたな〜とも思う。自分を取り戻してからは、年々軽くなる・行きやすくなるんだなと確信して、生きたい人生になったし前を向ける人生にもなった。
学生時代にしっかりがっつり人間をやったし、社会人としてもいろんな形を学んだし、いろんな人間がいることもわかった。
圧倒的人間もいれば、人間と宇宙人の間の人もいるし、圧倒的宇宙人の人もいる。そういう世界らしい。
誰にも話が伝わらない、等身大で話せない、と思って生きてきた学生時代だったけど、今は同じ村の人に出会ったり、話がわかる人伝わる人同じものを見ているなと思う人に出会えたり、私だけが変なわけじゃないことも分かった。
わたしはもっとわたしになれる。
そうわかった今、私はここからどう生きるのか、どう日々を歩むのか。
次の誕生日まであと半年。
また大きく人生が変わるのかもしれない。
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