【一本目:私と奴と浅草の怪しきこと】『いま、なんどきだい』【第六回】
<六>
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茫然自失、だった。
腹は減っている。が、暖簾を嬉々としてくぐり、何を食べようかと心躍らせながら思案する気分には到底なれなかった。
浅草は、その全てを奴の思惑に委ね、私を絡めとっていた。奴の策は私が悪足掻きする前から、既に成就していたのかもしれない。
――サァ、やってみろよ、成仏させるんだろう?満足させられないのなら、せめて手前ェのちっぽけな幸せ見せつけて地団駄を踏ませて、徹底的に死よりも優位な生命の輝き、尊さを見せつけるんじゃなかったのかよゥ?
頭の中に響く声はなくとも、私は確実に追い詰められていた。負けを認める、即ち絶望のままに佇み歩みも考えることも止める時なのだと、そう思っていた。
と、その時。
ガララ!と鼓膜を拳で殴るかの如く、蕎麦屋の引き戸が開いた。
「アラま!ごめんなさいねぃ」
もはや言葉を失っていた私にそう声を掛けたのは、戸を開けたであろう小さな老婆……おそらく、この蕎麦屋の女将、その人だった。
私の肩口にも満たぬほどの体から言い知れぬ光輝のようなものを放っている彼女は、清潔な三角巾で腰まである銀髪を纏め、いかにも働き者らしい理知的な風貌で私を見つめていた。
「ん?」
彼女は鼻の上にちょこんと在る銀縁の丸眼鏡を両手ですりあげると、その一瞬で私の全てを見透かしたと言わんばかりに、亡くなって久しい祖母のそれにそっくりな微笑みを浮かべた。割烹着の襟元から覗く井絣の、小ざっぱりした紺地の風合いが、彼女の為人を物語っているようだった。
「せっかく来ていただいたんですけど、ほんとにごめんなさいねぃ、今日はもう――」
そう言いながら、女将は働く手を休めなかった。暖簾をヨイショと下げ、とっとと店仕舞いしようとする。触らずとも判るもちもちの白いほっぺたをふるると奮わせて、今度は声を上げて、ホホホと笑った。
年輪と呼ぶにふさわしい皺はむしろ福々しい彼女の溌溂とした雰囲気を引き立てているかのようで、五十年生きてると聞いても、三百年生きてると騙されても、そうかもしれないなと一瞬信じてしまいそうな不思議な魅力にあふれていた。
彼女が暖簾と共に店の中に引っ込もうとする間際、私は無礼にもその手首を掴んで引き留めていた。
掠れる声を咳払いで整えながら、
「あ……あの、仲見世通りに出るには、此処を真っ直ぐ……この方向に歩くので間違いはないでしょうか?」
女将はきょとんとし、しばし私の顔を眺めてから、不意に何か合点がいったかのように、
「嗚呼、ナカね!嗚呼、嗚呼、あーそう!……え?ナカ?ん?……あなた、そう、そうなのねぃ……ごめんなさい、真っ直ぐなのか何処かで曲がるのか、私もこの道を行ったことがなくて、ちゃんとはわからないのよ」
「はぁ」
なんとも奇妙なことを言う、と思った。
何度も書いたが、店の前に左右に伸びるのは黒塗りの板塀に挟まれた一本道。この道でなければ、どこを通って、客は女将の店に辿り着けばいいのだろう。店への道順を案内するにしても、何にしても、自分の店の周辺地理に通じていない、などという商売人は終ぞお目にかかったことは無い。
「まあ、あれね。迷子なら仕方ないわね。でも、ほんとにごめんなさい。だからといってうちの店であなたをおもてなしするわけには……御覧の通り、もうミセジマイなのよ。その日にお越しになるお客様の分だけ、きっちり仕込むのが此処の通りの流儀なの。あなたのぶんの御膳は他のお店で御用意なさってるんじゃないかしら」
私は頭を抱えたい気分になった。女将の話は筋道が通っているようでいて私の常識とは何かがずれているようだった。私と女将は向き合って言葉を交わしている事実は在れど、互いの認識と状況の見解が噛みあっているようで、まるで噛みあわない。
「えっと、ですね。川の近くから歩いてきたんですが、この、黒い板塀の路地に入ってから、店らしい店は一軒も見かけませんでした。ようやく辿り着いたのがこちらの蕎麦屋ってわけでして――」
アラ!と、今度は女将が困惑する番だった。眼鏡の奥の目を丸くして、割烹着のポケットから黒くて分厚い手帳状のものを手品師のような手つきで取り出し、パララ……とページを弾くと、ある場所をぷくぷくした人差し指でひたりと留めた。
「アラアラ、そうだったわねえ」
声を一段潜めて、呟いた。
「あなたのお陰で大きな失敗をしないで済みました、ありがとう存じます。今日はね、この通りはちょっと特別なの。あなたは迷子だから、詳しくは知らないまま通り過ぎるのがいいのだろうけど、もしかしたら『縁』がお有りなのかしら……だとしても、私たちにとってとても親しい方が渡っていく大事な日なの。だから、みんな今日は早じまいしちゃったのね……迷い込んでくるお客様をおもてなしする余裕は、どこのお店にもないから、嗚呼それでなのかしら」
早めの店仕舞い、だけで片付けるには無理があった。なんせ真っ黒な塀が続くばかりで、戸口も店へと引き込む道の入り口も見当たらなかったというのに、その奇妙さを訊ねる隙が見つけられなかった。
女将はコウシチャオレヌとばかり、そわそわしだした。
女将の様子を見るにそれ以上引き留めてしまうのはよろしくないことのように思われた。どうやら私は招かれざる客だったらしいし、一刻も早くこの路地を抜けてしまうのがお互いにとって最善策と判断せざるを得ない状況だった。
不景気だなんだといっても、知る人ぞ知る完全予約制の店というのは、そんなに珍しい営業形態でもない。採算が取れるかどうかは店の技量次第、むしろ客足を厳しく制限することで担保される味や品質というものもある。
私はそれはそれは……と軽く会釈して先を急ぐことにした。
すると、奥から柔らかな――好々爺然とした、よくとおる声が。
「おいおい、誰がお訪ねになってるんだい」
女将は大変なんですよぅ、と声を張り上げながら暖簾を携え店の中に戻って行ったが、引き戸が開いたままだったので、中の会話は全て私の耳に届く格好になった。
「えーなんだか迷子みたいでねぃ」
女将が私のことを説明しているらしい。
「馬鹿ぁ言え、うちの戸の前に立ってたんなら、そりゃあうちの御客だろうよ」
「でも今日に限って、うちみたいな店に飛び込みのお客様なんてありえないわよ」
「でも他のとこは御渡りの準備で締っちまったんだろう?」
「ぁい」
「んじゃあ!迷子だろうとなんだろうと、うちに来ちまったんならうちの客ってことだろうよ。それに、誰かがもてなしてやらねえと、ずーっと迷子だ」
「そうは言っても、ですよ?もうお出しできるもんがないよ、お前ィさん」
「なぁに、探しゃあ何かあるはずだ。戸の前に居たってことは、そういう『縁』がついてるってことなんだしな」
「そりゃあ、そうなんでしょうけどねぃ……なら、どこでもてなしましょう?中に入っていただくわけには行きませんよ?だって今日は――」
「ああ、わかってる。わかってるさ。だからこうして困ってる」
「どうしましょうねぃ」
私は中の様子が伺えぬ薄ら闇に向かって、声を張り上げた。
「女将さんの御推察どおりです。私は迷子でして、こちらの御蕎麦を食べに伺ったんじゃないので、客の頭数には入りませんよ。お気遣いいただきありがとうございます、お気持ちだけいただいてお暇します」
好々爺の声が間髪いれずに怒鳴った。
「バカヤロウ!迷子が偉そうに何言ってんだ、うちは迷った人間のお客様は神様ですなんて料簡で商売やってんじゃねえ、そこで待ってろお前さんの分の『仕込み』はどっかでやってるはずだから」
話は聞いてたな?と好々爺が言うやいなや、パタパタと、足音なのか羽音なのかが複数聞こえた。そして好々爺でも女将でもない、高く弾んだ声が重なって、
「お客が来るってことは!」
「なんとかなるはず!」
そこに好々爺が呵々と笑って、
「おう、御客人、今日はちょいとこみいってて席に通すわけにはいかねえんだ、だから申し訳ねぇ、戸を開けっ放しでしばらく待っててくんなィ!」
フフ……と笑う女将が、再び現れ私と対面するように戸口に立って、ひとつ頭を下げた。私も釣られて、ハットを脱ぎ深々と礼をした。
「大将はりきってますから、きっと大丈夫ですよ。迷子さん、無事に道に戻れます」
暖簾が外され開け放された戸口の向こう、小さな老女将の頭越しに、ぼんやりとした灯りが遠くに見えていた。台所で火をいれたのだろう。
紅い闇が立ち込める路地で、提灯と女将の微笑と、その灯りが放つ温かさが、この日初めて私の緊張を解してくれた。客席は灯が落ちているが、奥からかちゃかちゃと音がする厨房の賑やかさが伝わってきて、ここに辿り着いて良かったのかもしれないと安堵の息を漏らした。
おーぅい!と呼ぶ声がして、女将ははぁい!と応じて下駄を鳴らし店に入っていった。奥から感嘆の声が上がったのが聞こえてくる。
「ほら見ろ!ちゃんと迷子の御客人のぶん、あったぜ」
「アラアラ!さすがですねぃ、大将。もう長いことここでおもてなししてるけど、不思議で面白いことって、まだまだいっぱいあるのねぃ」
「ぐふふ、わっちもがんばった」
「とってもきれい、ほめて!ほめて!」
「ほんとにねえ、みんなでよくがんばりました。今日のおもてなしにぴったりねぃ」
漏れ聞こえてくる声は皆、こちらが気恥ずかしくなるほどに軽やかで、実に晴れがましかった。
女将が戸口に戻ってきた時、その手には透明のプラ容器が乗っていた。
「大変お待たせいたしました。あなたのぶんのおもてなし、ちゃんと用意がされていたようですよ。勘違いしちゃって、ごめんなさいねぃ。あ、御代はけっこうですよ。近いうちに正式におもてなしさせていただくようだから、その時にまとめて頂戴します」
女将が微笑みながらプラ容器を差し出し、私は何の疑いも躊躇もなくそれを受け取った。
女将が口元に手をやって、こっそりここだけの話ですよと念を押してから言った。
「うちの大将はね、昔気質のひとだから……口が悪くってごめんなさいね」
言い終えてクフフと笑った女将は、もちもちの頬を薄暗がりでもわかるほどに紅く染めていた。
プラ容器の中には稲荷寿司が三つ入っていた。パックの隙間からもふわりと漂い出る、煮汁に仄かに忍ばせた柚子の香りがなんとも食欲をそそる。寄席で羨ましくなったあの助六に入っていた稲荷寿司と違って、丸々と肥えに肥えた稲荷寿司だった。揚げが裏返って、天が開いていて、中の飯を見えるように詰めてある。飯は白ゴマとひじきの煮たのを混ぜ込んであって、あしらいとして細く刻んだサヤエンドウを散らしてあった。
「そうそう、うちの職人さんに、あなたが行こうとしてるホラ、えーっと……ナカ?の店の通りでしたっけ?訊いたらね、知ってるって!この道を、こっちの方角にね、ずーっと真っ直ぐですって」
女将は私が歩いてきた方向とは逆を指差し、真っ直ぐ、真っ直ぐ、と繰り返した。
「途中、曲がり角が出てきたとしても、まぁそんなことはそうそうありませんけどね、絶対に真っ直ぐですから。ね?」
「はい、何から何まで、ありがとうございます。助かりました」
「うんうん!あなたなら大丈夫ですよ、ずっと、ずーっと一本道ですから。もう、戻っちゃダメよ?ここからはできるだけ後ろを振り返るのもダメ、ぎりぎりまで我慢よ、わかる?」
「あぁ、はあ……」
なにやら引っかかるところが多数ある物の言い方だったが、寿司の香りに我慢がならず、今すぐにでも食べたかった私は、大いに礼を述べてハットを被り直し、その場を辞した。
程なく後ろから、女将の声が、追いかけてきた。
「お気をつけてお帰り下さいませぇぇ!もう迷子になっちゃダメですよぉぉぉ!それと!とても大事なこと!あなた、お腹が物凄く空いていらっしゃるけれど【路地を抜けるまで食べてはダメ】ですからねぇぇぇ――」
路地を出る前に食べると云々……その続きを何か言っていたのは判ったのだが、急激に声がくぐもっていき、よく聞き取れなかった。
振り返るのは極力控えるようにと言われていたが、聞き取れなかったところをもう一度聞かせてもらうため、また、いま一度ありがとうを言いたくなって、直ぐに振り向いたが、そば屋のぽっちりした提灯の灯りも小さな女将の割烹着姿も、紅い闇に掻き消されたかのように見えなくなっていた。
黒塗りの板塀が続く未舗装の道が、前にも後ろにも真っ直ぐに続くばかりで、後戻りしてはいけないという女将の忠告が俄かに現実味を帯び、冷たく鋭く私の脳髄に突き刺さった気がした。
【第七回へ続く】
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