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【二本目:その席にて待つ】『いま、なんどきだい』【第九回の配信】

 はじめましての方、ようこそいらっしゃいました。
 二度目以上お運びの方、本日もありがとうございます。
 虎徹書林ぷれぜんつ、木曜日のチョイと怖いお話――略称『虎徹書林のチョイ怖』をお届けします。

 今回の第六話、紙又は電子書籍に収録することが前提の短編小説の三本立て構成です。週に一度の連載で、完結まで五カ月ほどかかります(2024年7月ごろに完結予定)。一回分のボリュームは約5000文字ほどです。
 収録する書籍の出版予定は未定ですが、書籍化するにあたり加筆・修正がされます。また書籍化の規約上、noteでの公開が中止になることもありますのでご了承ください。

<二>
※無料公開中は虎徹書林作品のご紹介(真ん中へんと最後あたりの二回)が含まれます

 その路地はやけにひんやりと、そしてひっそりとしていた。
 いたずらに警戒心が強くなっていた私は予想以上に腹が減り、少々胃が痛くなってきていた。
(一刻も早くまともな食事にありつかねば)
 鞄の中をまさぐり、アンパンと一緒に買っておいたペットボトルの水を一口、二口……と飲み下し、痛みが和らぐのを暫し待った。
 空腹のせいか、道幅の狭さのせいか、まばたきを二、三度やると視界がくらっと傾くような気がした。体の不調があの世のモノどもを捉える勘を鋭敏にしてしまう傾向にある私には、この状況は大変な危機と呼ぶべきものだった。
 鳩尾を刺す痛みが軽くなってきたので改めて周囲を見回すと、私の視界は未だ愛すべき現世の風景と光で満ちていた。色彩と音の無いこの世ならざる人々の暮らしが、多重露光したかの如く紛れ込んでいないことに、束の間安堵する。
 己の意思で眼の『チャンネル制御』が出来なくなってくるようならば、それこそ一大事である。良からぬ事を企む怪しきモノどもに、己が肉体と精神に入り込む隙を与え、場合によっては命に関わる不始末に繋がるからだ。
 観音寺のお膝元、その慈悲に縋ろうとただでさえ有象無象が入り乱れている街である。勘の強さと経験則を頼りに怪異と対峙するのが身上だ、それなりの対策は心得ているが……これでは暢気が過ぎるなどという程度ではない。街の浮かれた雰囲気そのものを罠とする策にまんまと嵌るなど、副業の取引相手や御同業の、いい笑いものだ。
 表通りから少し離れた道が入り組んでいる界隈は、悪意の度合いに関係なく、常人の眼には映らざるモノたちが人の数より多く歩き回っていると噂に聞いていた。
 御同業たちがどうかはわからないが、私は勘が刺激され研ぎ澄まされるほどに腹が減る。ある取引相手曰く、この世の景色と、それ以外と、同時にひとつの脳味噌で情報処理をするのだから、常人よりも多少燃費の悪い体質になるのだろうよ、と。その御仁が、脳味噌が唯一燃料にできるのは糖分だからと、差し出してくれたのが芥子の実がたっぷり乗ったアンパンだった。理屈の正誤はともかく、その後の私はたった一個のアンパンに急場を救われる場面を何度か経験している。
 この日も一縷の望みを託して買い食いしたが、焼け石に水。いや、そんな生易しいものではない。食ったそばからそれ以上のカロリーを消費しているらしかった。
 視覚、聴覚は例の蝶以来、怪しげな気配が寄るのを察知しては居なかった。
 が、油断は禁物――視覚の方は集中を少しでも欠くと一瞬揺らぐ。それも瞬時に元に戻るけれど、何もないところで蹴躓きそうになり、冷や汗をたらしながら体勢を整えなければならないのはどうにも気分がよろしくない。空腹で転倒、打ち所が悪くてそのまま帰らぬ人に、なんて最期はできれば避けたい。
 全ての原因を怪異に求め、事象の観察の手を抜いた御同業がこっぴどい目に遭うのも、私は何度も、何度も見てきた。結局は人の子、物理的或いは生物学的アプローチを抜きにして、元気に長く生きることは語れない。
 後々笑い話になるなら、まだいい。私にとって肉体の不調や怪我は、怪異と同等に怖ろしい。薬湯はがぶ飲みするが、抗生剤を飲むのを嫌がって三途の川を渡る者。所狭しと呪符が貼られた部屋に籠り適切な処置をせず、結局はその後遺症で引退に追い込まれる者。そういうケースは決して他人事ではない。私も常に隣り合わせだと思っている。
「面倒事の予兆にならなきゃいいが」
 元凶の見極めつかぬ体の不調は大抵、単純な要因が複雑に絡み合って起こる。その、思いつく限りの可能性を、ひとつひとつ検証し潰してようやく、悪意ある怪異の残滓や障りや攻撃の影響ではないだろうと判断を下す。
 それ故に。浅草という街を散策するための作戦立案に際し、己の特性に対する認識の甘さがあったことを存分に恥じた。
 念のため、と黒塗りの板塀に寄りかかり、ゆっくりと呼吸をしながら目を閉じた。
 今一度、視界に現世の景色のみが映るように、意思によって調整する。血糖値が急激に下がった時特有の、冷たい大粒の汗が盆の窪、脇の下、鳩尾と同時に伝っていった。
(おいおい、冗談じゃないぞ)
 瞼の裏の、ぼんやりした火花が散る薄闇に、あの万年青に止まっていた蝶が飛び立つビジョンが脳裏に浮かんだ。
 あの蝶か、はたまたあれに準ずるこの世ならざるモノが頭の中に潜り込んだ感触はなかった。
(気付かれるほど雑な入り方はしない、とか?)
 私の意思は既に蝶に乗っ取られ、良いように彼岸を目指すように操られているのか?と愕然とした。
 もはや異常とも言うべきランチ戦争然り、昼日中にこちら側に干渉する彼岸の蝶然り。知らず知らずのうちに此岸彼岸の区別無く街全体の狂おしい歓待を受け、気付けば真面目にネタ探ししている時のように勘を研ぎ澄ましていた。
 燃料切れ寸前で、幻視の一つも見ない方が不自然だろう……そう、思いこもうとした。強く、強く、念じていた、と言ってもいいだろう。その甲斐あってか、蝶は再び視界の果てに溶けるように消えていった。
 目を開け、ゆっくりと自らの肉体が意思通りに動くかを確認する。顔、腕、脇腹、脚と手で触れ、軽く足踏みをしてから二、三度、縄跳びの要領でジャンプした。意識はしっかりと肉体という器の中に満ち、真綿の繊維が引っかかるほどの些細な違和感も入り込んではいなかった。
 威張れたことではないが、怪異に入り込まれる経験は少なくない身だ。体と精神とが少しでもずらされる兆候があれば、直ぐに判るし決して見逃さない。
(大丈夫。大丈夫だ)
 私は私として、現世に立っている。
 怪異と対峙することを生活の一部にしているが、なんでもかんでもオカルト的解釈に結びつけたりはしないことは、先に言った通り。そして、見たもの聞いたものを必然の名のもとに全て関係がある風に考えるのも、私個人は禁忌としている。敢えての不信心を貫き偶然は偶然として片づけるからこそ、無目的に迷い出たモノに干渉して妙な期待を持たせないし、当たり屋のようなチンピラ怪異を退けることに躊躇しない。
 袖が振り合ったことを不運に思え――一期一会とは、何も良縁を指すばかりではない。
 臨機応変に。現世にひとつの命を与えられた者として生き延びることを必死に考える。あの世の存在を信じない者がそんなもの気のせいだバカヤロウ!と断じるのも、人間が長生きするための知恵であると、私は思う。
 御先祖を、延いては遍く死者を、敬え感謝せよと世間では美徳のように言う。世の中が海の向こうも手前ェの近所もガタガタで、人々が不安に常に苛まれているからだろう。
 しかし私に言わせれば、そんな綺麗なお題目はクソくらえだ。
 墓が無いから供養してくれと、手当たり次第に縋ってくる死者に物心ついた時から「オマエ、見えてンな?」と付きまとわれてきた。アイツらの考えてることは手に取るようにわかる。


『いま、なんどきだい』の二本目のお話【その席にて待つ】お楽しみのところ、失礼いたします。
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 自分のこと以外、考えてないのだ。ただただ、死というこの世とあの世の狭間に留まる虚しさを、群れることで薄めることができると思っている。そのためにアイツら――世間で悪意ある霊と呼ばれる者どもを見たり感じ取ったりする人間の脚を引っ張り、縋って引きずりこもうとする。
 あの蝶も最初はてっきりその手の、共に虚しさに溺れようと手招きする手合かと思った。それにしては、挙動が今一つ積極性というか主体性に欠け、こちらが退ける前に去った。
 ならばどうして、再び私の前に姿をさらした?
 脳裏に、得体の知れぬモノという言葉が浮かんだ。その響きが、えらく不気味だった。
 そして、これはいよいよもって、事態は一刻の猶予もない。と、思った。
 腹が減るとろくなことを考えないようになる、ぼろを着てても風呂に入れなくてもまずは食つなぐことを考えろ、と言っていたのは大学時代のサークルの先輩だったか?アンパンでもなんでもいい、とりあえず食えるものを探さねばならなかった。それと並行して行列に屈することなく、それでいて手っ取り早く、しっかりした飯を食わせてくれる店に入り込まねばならない。
 ペットボトルの水では、腹が膨れないばかりか、胃痛を誤魔化すのも限界に近づいていた。
 ふらふらと歩みを進めると程なくして、何やら芳しい出汁の香りが漂ってきた。引き戸の開く音が重なり、アリガトウゴザイマシタ!と快活に響く女声も聞こえた。
 ゆるくカーブした路地の先へ引き寄せられるように行くと、鋭角に交わった道に面して瓦葺の狭い間口が現れた。古い建具を綺麗に磨きなおしたところに臙脂の暖簾を掛けた、一見してそれとわかる店だった。
 引き戸には紅葉をあしらった、今どき珍しい細工物のすりガラスがはまっていて、それを支える格子は素人目にも細工が確かなものだとわかる。ピタッと閉じた引き戸の向こうは、それなりの賑わいを感じるから、おそらく常連客の舌をがっちりと掴んでいる店に違いない。
 改めて視線を暖簾に移すと、右下に小さく『おそば』と白く染め抜かれている。
(てっきり定食屋かと……)
 甘めの醤油味を色濃く想起させる香りに、下町らしく牛モツ定食などと洒落込みたい気分が湧き上がっていたところだったが、なかなかどうして、蕎麦も悪くない。
 どれどれ……と暖簾を潜ろうとすると、
「ックション」
 誰かのくしゃみに、思わず震えあがった。
 見れば、行列の先頭と思しき男性が苦笑いで私を見て、最後尾はアチラ……とばかりに手のひらをある方向へ扇いでいる。
 ああ、これはこれは、と合点がいった私はクシャミ紳士に詫びと礼を込めた会釈を返した。おそらく怪しく中を伺う風を装いつつ、行列の最前列に割り込もうとする困った奴と思われたに違いない。正真正銘、単なるウッカリだったのだが、互いに腹を空かせた者同士、ズルは言わずもがな、そうと誤解させる紛らわしい素振を見せた私が完全に悪い。
 恥かしさをがに股歩きで誤魔化しながら、蕎麦屋の行列の最後尾に向かった。
 路地のどん詰まりに向けて伸びる行列は、表通りの店の見るだけでうんざりするようなそれに較べ遥かに短かった。
 列に並んだ人たちも、きっと私と同様にランチ行列闘争に負け、流れ流れてこの路地に辿り着いたに違いない。私と目が合い気まずい笑みを浮かべる人に至っては、同類相憐れむといったところか。はたまた、どうしようもないオッサンだ、と呆れたか。私も同じ立場ならそう思う。
 それにしても。その行列は楽しい休日のひとコマとは、お世辞にも呼べるものではなかった。
 空腹でぶっ倒れそうな人間で溢れかえっているのが、近代浅草の風景だとでもいうのだろうか?まさか、私と同様な特性を持つ人がたまたま、ここに集ったのか?
 並んでいる人々に気付かぬほどに腹が減り過ぎていた私は、流石にイレギュラーだとは思うが……先ほどのクシャミ紳士に、女声ばかりの四人グループ、初めてのデートと思しき男女二人連れと、どこからどう見ても観光中にしか見えない面々は一様に口数少なく、おまけに顔色も青白かった。
 かと言って、だ。何処かで弾き出されて、空腹を抱えながら街を彷徨うという苦行を背負った同士、仲良くやっていこうじゃないか……とは、これっぽっちも思わなかった。
 老舗の、何フロアも建て増しして宴会場をこしらえている蕎麦屋ならいざ知らず。小上りがあるかないかの店にまで団体で押しかけ、剰え無駄に長時間居座る方がどうかしている。浅草のみならず全世界的に何かがおかしくなっている事に気付かず、実は例の疫病の真の目的はこの馬鹿げた行列によって人々を攪乱させることなのではないか――願わくば、私の前に並ぶ面々も同様の妄想を持ち合わせていて欲しかった。

 この世とあの世の境目には、夢も希望もありはしない。そんなものは、一部の浮かれた好事家や旅人がひと時勘違いしている幻影、白昼夢だ。
 そいつらの宴の始末を担うのはいつも、土地に根付いて生きる人間、その人間の念に縛られ続ける霊や魂である。
 そう――ケチのつき始め、と言ったが。
 何も、損な役回りを例の疫病禍からこっち、押し付けられて割を喰ってたのは人間だけでは無かったらしい。
 それを知ることになるのは、ここから数時間後、いや数日後か?
 いずれにせよ、この路地裏の蕎麦屋で、私は一杯食わされたってことなんだろう。
 蕎麦だけに、ってやつだ。忌々しい。

第十回へ続く】

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このnoteを書いた人


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まさかとは思いますが……コラボのお誘いとか御仕事のご依頼とか――


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