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まぼろし

大森靖子 KILL MY DREAM TOUR2023も折り返し。

今回は命を使い切ってわたしがいつ消えてもいいようにという気持ちが大きすぎて行けるところ行ってみたいところは無理なくできるだけ着いていきたいと本能で思ったので、想定より多めの公演に出会える予定だ。

もいちど問いかけるよ そこはどうなってるの?
命は燃やしていくものだなんて 冗談だ ばかみたい

BiS/DiE

数年前までこんな気持ちで生きてたのにね。
でも結局これって燃やしていくものではなく使い切るものだとすれば然して変わらないのかもしれないね。

突然初期BiSの歌詞を載せましたがこのDiEがわたしを強くしたから命を使い尽くすとか使い切るとかどうやって使って生きてくのかを考えたときに必ず脳裏にある歌詞、とても大切。

ところでKILMツアーに話を戻すと
今日までに行った公演は

・横浜ベイホール
・京都磔磔
・金沢21世紀美術館 1部/2部
・山形 桜座

5公演か〜少ない気もしなくはないけれど、ひとつひとつを大切にしていることが大前提として。


21美のライブあたりからそれは始まっていた。
わたしの中のまぼろし信仰と、靖子ちゃんのこのツアー初めて(唯一?)のコンセプチュアルなセットリストの21美2部がシンクロしたと思った。

弾き語りのパート以外には「人間がいないもしくはいない人間」のような楽曲を選んだというニュアンスのことをMCで言っていた。

その代わりと言うのも良くないかもしれないが弾き語りでは生きてる人間、つまり目の前のあなたへという選曲をしているようにも感じた。

そしてまた「NIGHT ON THE PLANET」でまぼろしのような深海のような深度へわたしたちを運んでいくこの流れが夢か現実かわからなくなって記憶がどんどん混濁していく。
流星ヘブンにはいままでに感じたことのない新しい解釈と新しい表現を観たと思うしsugarbeans氏が生み出す音がその新しさの強度をさらに美しくつよくやさしくしていくことでわたしの中で気持ちが緩やかに決壊してゆくのを感じた。

「ぐわーお、ぐわーお、、きみを むかえに きたよ」
セトリにおそらくなかったのではないか、というアカペラでのフレーズからそれに呼応してsugerbeans氏が鍵盤に手を置く

死神になる前に怪獣GIGAをふいに挟んだ気持ち、そのこころの奥がやはりそれはもう人間ではないなにかそれがボロボロになっても助けにきた、流星ヘブンから地続きの「わたしが君に会いにきた きみもわたしに会いにきた」からの「きみを迎えにきたよ」は余りにも悲痛でそれでいて退屈から連れ出すとともにそれはわたしのことも連れ出してほしい、とも取れるような魂そのものだった魂でしかなかった。

daisuketanakaのドレスを纏い美術館には芸術の装いでというお姫様はわたしをどこまでも絶対にその手を離さないという優しさと意思のこもった瞳で自分の世界に大丈夫だから一回来てみなと言わんばかりの強さで惹き込んでいく、それはこれまでともに生きてきた軌跡の一部のようでもありたった独りであり続けた彼女の部屋を少し覗いたような瞬間でもあった。

その魂を目の前にして嗚咽が悲鳴に変わりそうなほど泣きじゃくって静寂に鼻を啜る音が紛れないように顔面をタオルで覆って子供みたいに泣いた、わたしが大森靖子のライブでこんなに馬鹿みたいに過呼吸寸前になるくらいまで泣きじゃくったのはもうかなり数年ぶりだったような気がする。琴線に触れすぎてどこにも行けなくなりそうでこころが壊れてしまいそうな瞬間死神のイントロが奏でられそしてこの日の死神もまた新しいかたちの美しさと感情が綯い交ぜになったものが提示されどんどん夜に堕ちていくその感覚をずっと引きずってここまできたことを知る。
もうずっと顔をタオルにうずめたまま誰にも悟られないように肩で息もしないようにだけど叫びたいほどの嗚咽が「そのすべてが愛に基づいて蠢いている」とともに溢れてしまったものはオリオン座が始まった安堵により人目も憚らずにとてもちいさく「ウッウッ」という声となってしまった。
もう最前じゃなくて最後方出入り口前とかだったら飛び出してしまったかもしれない。

でも逃げ出せない場所でよかった逃げたくなんかないよな、こんなの。

オリオン座の記憶は殆どなくてそのシンガロングの美しさの中でどうにか整えなければと思い、靖子ちゃんがステージへ帰ってきて「お茶碗」で現実へちゃんと戻ってくる流れになっていたはずなのにお茶碗すらもわたしのこころには薄ぼんやりとやはりどこか浮遊感が漂っていて目の前は現実でわたしは身体があるのに靄がかかっていて、曲の途中で靖子ちゃんと目があったときに漸くここがほんとうの世界だよと言われたような気がした。最後のTATTOOは全力で楽しかった。

そのこころが揺れる揺さぶられるどうしても自分の状態もあるかもしれないけどそれ以上のなにか
つまりtiffany tiffanyからはじまったこの世界は割とやはり異空間でそれが半ば意図的なセットリストに引っ張られたものなのかわたし自身が抗えないまぼろしを抱えていたのかその答えが導き出せないまま1週間ぼんやりと過ごしてしまった。向き合うたびに涙しか流れなかった。
わたしは幽霊、或いはそのようなものになりたいとふと思い始めていた、意志を持ちこの世に留まるものに。

とある人物が死を試みたとされる場所
↑とある人物が死を試みたとされる場所

その1週間後わたしのこころがざわついたままそれは起きた
山形・桜座の公演は7月9日だった。
相変わらずわたしは幽霊或いはそのようなものになりたいままだった。
7年前に「ハミングバード爆レス歌謡祭」と題したライブが行われた会場は相変わらず異世界転生感の否めない場所で一歩入ると外の雑踏から切り離され商店街の真ん中に建っていることを瞬時に忘れてしまう不可思議さがある。7年経ってその感覚はより強くより最早その存在そのものがまぼろしであるかのように感じられた。

その日のわたしは精神が不安定だという自覚があった、じっとりとした湿度と張り付くような空気、不快指数の高めな気温と天候その中で行われている祭、すべてが絶妙に噛み合ってない街に居た。
金沢のときは自覚のないまま崩壊してしまったのできっと今日は自分でコントロールができると思っていた。
だからわたしはなにをどの角度から喰らってもいいように段差になっているお座敷の上段、出入り口前に座ることにした。(なんかもうこの時点で何と闘ってんだ感がありすぎる文章になっているけど別に誰かに攻撃されるとかそういう話ではない)
柱VIPギリギリの視界、靖子ちゃんが下手で歌っていると柱でsugerbeans氏(動けないからずっと上手)と世界が分断されているようにもみえてその境界を縦横無尽に行き来しているようなライブはやはりこの空間を使い切るという靖子ちゃんの動きが良くみえるわたしの視界からの最大の醍醐味に思えた。

超天獄からはじまるライブは自分の現在地を確認できるような気がして気持ちが良くて好きだ。
わたしはなぜここにいるか?を問われ応えることや「此処は超天獄」の「此処」がどこであるかは常に流動的であると思うから。今日のわたしは?何処に居るのだろうか。

君に届くなの「好きだけど届くなそれがしあわせ」をいつも踏み外して生きてしまう性、すぐにひとを好きになり好きですと脳が感知するよりはやく言葉にしがちなわたしにとってはまさに「恋がしたい恋がしたい恋がしたい、最悪」なのでありここいちばんこころを読まれたような流れが心地よくて大森靖子を信じられる要素のひとつを更新してゆき染み渡る、と、思ったその瞬間ドアも閉まっていて空調もないのにスッと冷たい塊(或いは風)がわたしの右頬に当たった。右手を見たがやはり出入り口は閉まっていた。

弾き語りに入り、またわたしがふわふわとした感覚にとらわれているとちょうど「夏果て」でまた風が吹いた今度はぬるい風、ふと隣をみるとドアが開かれクソでかいサーキュレーターが回っていたので安堵した。

そして靖子ちゃんもまたこの桜座という空間になにかを感じていたのかはわからないけれど、突如「不思議だよね」という趣旨のMCを少し挟み不思議な歌歌っちゃお!とAlice in wonderlandを始めた。OMG…
わたしの中に蘇ったのは紛れもなく21美2部のまぼろしセトリだった。そしてイマジナリーフレンドへ続きふたたびOMGである、もう還ってはこれないことを覚悟して流星ヘブン〜死神を受け止めた。
全身で。今日は泣かずに。
目を見開いてすべてを焼き付けなければと言語化し難い感情を抱いたまま見届けふうと息を吐くとオリオン座が始まりそれとともに人生というかここ数年、もっといえば靖子ちゃんと出会ってからの9年半の走馬灯が駆けめぐり脳内がぼやぼやになってしまった、あーまた自分をコントロールできない靄がかかってしまったそのときわたしは桜座の何かを拾ってそのかわり自分の一部を置いてきたんだなって直感した。
アンコールの絶対彼女〜ミッドナイトで、これからライブはじまるのだっけ?とばかみたいなことを思ってしまった。
今まで見てたものはなんだったんだよ、まぼろしか

それから今日までなにひとつ身が入らないまま何かするたびに盛大に気を散らしながら過ごしている。

わたしにとって桜座のライブは、そこにいた「何か」と取り引きをした場所だと思っている。
「ひらいて」が終わる瞬間にわたしをかすめた冷たい何かはわたしの中に入ったと思うしその代わりにわたしは何かを桜座に置いてきたのだと思っている。
その何かをいま考えているところでわたしの失われたものと引き換えに得たもののことももちろん考えている。それがなにであるかはまだわからなくてやはりその瞬間を思い出そうとするたびに涙が出てしまう。

得たものも失ったものも同じくらい大切なものでだからこそそれをわたしは「取り引き」だと思っているし等価交換のようなことが起きたのだと思うからこそそれはネガティブな意味ではなくもっともっと優しくて強くて果敢ないちからのような気がしていてそれが靖子ちゃんの音楽と桜座との掛け合わせが生み出したものであるとするならば。

余談だがわたしはこのツアーは靖子ちゃんとファンがそれぞれここまで生きてきた人生や幸不幸を自分で掴んだものや培ったもの形成された人格等々を持ち寄りそれぞれに生きているということその現在地の確認とそれを喜び合ったり抱きしめ合ったりするようなツアーになっていると思っている。

靖子ちゃんが魔法使いにしかなれなかったとてひとりの女の子であること永遠の少女で在り続けることは不変でその少女性やそういったひとくくりにできない背負い続けるものや業を多少ともに生きてきた時代と過ごしてきた日々により「わからなくても、わからないまま側にいる」ということがどれほど難しくてだからこそ尊く容易い言葉では表せない関係性は形成されるものだからその積み重ねを大切に10周年を祝福したいと思っているし、いままでのことぜんぶまぼろしだったとしてもあなたのことが大好きだよ、靖子ちゃんでなければならないことが人生多すぎるのだからということをもうすこし丁寧に伝えられたらと願うばかり
自分にもっと期待したい

夏のまぼろしが強すぎて異世界に連れて行かれそうなわたしより

𝓘 𝓱𝓸𝓹𝓮 𝔂𝓸𝓾 𝓚𝓘𝓛𝓛 𝓜𝓨 𝓓𝓡𝓔𝓐𝓜

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