時には起こせよ

「だからぁ、くなっぷぐぬんっん!」
レジ前の黒縁メガネをかけた男性は言葉に合わせるようにカウンターを叩いた。せっかく入店時に着けてくれていたマスクも顎にずらしてしまっている。口の動きで説明するためだろう。
「え、、ですから」
私は何度目かわからないが繰り返し説明を試みる。そのような商品は、
「このコンビニには置いてませんので」
「あらや!」
かぶせ気味に男性の罵声が飛ぶ。
「あ・ら・や!」
脳天気な入退店のジングル音が鳴った。男性の後ろに並んでいた最後のお客さんがいま、手にしていた商品を棚に戻し諦めて出ていった。
「ありがとうございましたぁ」
習慣は恐ろしい。私は去っていく客の背中に向けてつい声をかけていた。
「ありがとうございましたじゃねえんだよ!買ってねーんだから客じゃねっだろっがやー!んなことよりあ・ら・や!」
私は2回、小さく唾を飲み込んだ。点と点がつながっていく。
「ああ、『あるよ』か」
「あん!?」
「あいえ」
あらやというのはあるよを極力顎を動かさずに言ったものだ。つまり「あるよ」と言ったのだ。しかし何度考えても、レジ裏を探しても、発注表を見てもスマホでファミマのサイトを検索しても「くなっぷなんとか」という何かは、ない。そうこうしてもうすぐ30分が経つ。目の前の恰幅のいい黒縁メガネの男性が怒号を飛ばし始めてからは25分が過ぎていた。怒鳴り声に萎縮して身体の末端の血管に血が流れていないことを私が自覚してからは23分ほどだ。心は平気なはずなのだが、ずっと手が震えている。頬のあたりもとめどなく痙攣している。発注表を見ているときに、手の震えでファイルの紙がカサカサと音を立てた。男がこちらを見た。私は指の震えを隠そうとしたが遅かった。男性の目に嗜虐の色が浮かんだのがわかった。それからいかに私の震えを続けさせるか、さぐるような大声が続いている。あほか、ばかか、◯ねよ、などの言葉も飛んでくる。くなっぷぐぬんっんもわかんねえのかよ。
「わかりません」
「あ?」
「その、くな、くななんとか」
「くぁなっぷぁぐぁ!」
再びかぶせて怒鳴り声。今日びここまで店員に怒鳴れる人がいるだろうか。
「くなっぷなんとかが、何なのかわかりません」
特大のため息をついた男性が、親指をかざし、自身の首の前でさっと横切らせた。
「お前クビだよ、くなっぷぐぬんっんもわかんねえならコンビニ店員クビ。制服脱いじまえよ!何でそこ立ってんだよ!」
一線どころか二線も三線も超えている。私は手元のスマホを確認する。ボイスメモの録音は続いている。終わったら警察に持っていこう。この人を逮捕してもらうのだ。ウィル・スミスなら拳をふるえるかもしれない。しかし私は法に委ねたい。この異常な状況は法が裁いてくれると信じている。だから耐えるのだ。もちろんウィル・スミスがいるなら彼の拳に委ねるのもありだ。それからもう夜のシフトなのに加藤さんはどうして来ないのだろう。交代の時間を15分も過ぎている。事務所にはいるはずだ。見ているのだろう、防犯カメラを。それどころか声だって聞いてるに決まっている。どうして加勢に来ないのだ。加勢?いやいや、助けに。助けに来るべきだろう店長なのだから。そのあたりどうにだってできるだろうになぜ見殺しにするのだ。早く来い、加藤さん。
「くなっぷぐぬんっん出せよ!あんだろ!」
この黒縁も黒縁だ。30分だ。30分もコンビニ店内で怒鳴り散らかしてるってそれはもうぶっ壊れてる。私ならさっさと切り上げて別のコンビニで買うが。そのくなっぷ……ふんぬ、クソ野郎みたいなそれを。あるわけだろうが、コンビニには。知らなければクビになるレベルで常識レベルで置いてあるのだろうが。じゃあここで怒鳴ってないでさっさと。
「聞いてんのかぐらぁ!」
黒縁がカウンターを何度も叩いている。オラン・ウータンと命名する。ウータンがカウンターの天板をウホウホと叩いている。
私は喉が乾ききって張り付いていたので、気づかれないようにちょっとしゃがんで足元に置いたペットボトルの水を飲んだ。喉の貼り付きは全然治らない。
「おい何水飲んでんだよ!頭おかしいんじゃねえのか!?」
驚きのあまり蓋を閉める前にペットボトルをひっくり返してしまった。気づかれていたのだ。慌てて立ち上がり、
「すいません」
と一瞬だけ顎を引いた。頭は下げたくない。私なりのプライドだ。
「すいませんじゃねえだろが!」
「くなっぷぐぬんは、ありません」
「ぬんっん!」
店内のBGMが愉快に響く。「WOW WAR TONIGHT」。時には起こせよムーブメント。いまの状況でいうと私はムーブメントを起こされている側ということなのか?BGMが不愉快に思えてきた。有線すらウータンの味方をする。私は口を開いた。
「くなっぷぐぬん……」
「ぬんっん!くなっぷぐ」
「くなっぷぐぬん……ん……」
「くなっぷぐ!これでひとつ、ぬんっん!これでふたつ!わかっか!?わかんだろ!?わかんだろーが!あ?」
私は親指を鼻の穴に当てた。鼻の穴の付近をすこし指でなぞる。あー両方出てる。私は自分の鼻毛がちょっと伸びてきているのがわかった。なのに、目の前にいるウータンの言葉は何ひとつわからない。
「おめーナメてっといい加減警察呼ぶぞんん!?なに偉そうに鼻クソいじってんだ、あ!?くなっぷぐぬんっんだろーが!くなっぷぐぬんっん!何とぼけてんだよ頭おかしいなおめーな!」
もう限界だ。カウンター下にある警報スイッチに手を伸ばす。

「こちらでしょうか」

高く柔らかい声が横から届く。全身が震える中、首をかろうじて横に向けると、加藤さんがウータンに両手を突き出し、ほほえんでいた。
「あん?」
ウータンの荒々しい呼吸が浜田雅功のボーカルと一瞬シンクロする。
「くなっぷぐぬんっん、こちらでしょうか」
え、あるの?と思って加藤さんの手に目を移す。
加藤さんが突き出した両手には何か、ぶよぶよの、緑と青のマーブル模様の、ハンドボールよりちょっと大きいくらいの、何かぶよぶよの、ファスナー?テント?今川焼き?とにかく私のボキャブラリーにはない、何かぶよぶよの、気持ち悪い何かが、うにうにと動いていた。
ウータンはパッと表情が明るくなり、
「あーこれこれ、ありがとう!PayPayで!」
スマホをきっちり準備して画面をかざした。加藤さんがバーコードを読み取って会計を済ますと、ウータンは「あんじゃん」と弾んだ声で言い、ありがとね、とにこやかに店を去っていった。ウータンが店を出た瞬間「WOW WAR TONIGHT」のアウトロも終わった。私は足元のペットボトルを思いっきり踏んづけた。

いただいたサポートは、活動のために反映させていただきます。 どうぞよろしくお願いいたします。 ほそかわようへい/演劇カンパニー ほろびて 主宰/劇作、演出/俳優/アニメライター