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ヒトと自然に境界はない

前回の記事に引き続き、倉敷の大橋家住居で思ったことについて書いていこうと思う。

自然と共存した空間

住居内を見学していると、やけに戸が開いていることに気が付いた。最初はクーラーがないから仕方なく開けているのかと思った。

しかし、猛暑の中クーラーがなくても驚くほど涼しい自然の風が舞い込んでくる。管理人さんの話によると、竪穴式住居のように下層部が吹き抜けになっている上、壁の内部が竹(だった記憶...)で構成されていることから、夏も涼しいそうだ。クーラーに頼りきりの私は先人の知恵にはとても頭が上がらない。

自然との付き合い方の変化

つまり、当時の人々は生活に自然を上手いこと利用していた。もっと言えば、自然と共存していた。しかし、都市化が進むにつれてヒトは都市と自然を完全に二分するようになる。だから現代人は風に頼ることなくクーラーで涼み、そのために家を密閉し、外界の自然とは完全に隔離する。

その結果、特に都会で育った現代人は自然に恐れ慄き、敵対視するようになる。自然はよく分からないものだと。自分も自然の一部なのに。現代はあまりにも都市と自然を分離し過ぎてしまった。ちなみに、『風の谷のナウシカ』はそんな人々に警鐘を鳴らしている作品である。

やっぱりヒトは自然を求める

少し脱線したが、要するに大橋家の構造、いや昭和中頃までの家の構造は自然と共存していた。だから都会育ちの私はノスタルジックな家の構造や雰囲気に魅了されたのだろう。プラトンの『饗宴』でアリストファネスが人間球体説を語ったように、都会で育った私も潜在的に切り離された自然を求めたことで、大橋家に魅了されたのだと思う。

やっぱり、クーラーでは感じられない自然な涼しさがヒトには合うもんだ。

一緒に旅していた都会育ちの友人が現地の方に「何しに来たの?」と問われ、「自然を感じにきました」と返した一言がそれを物語っている。

繰り返しになるが、本来はヒトも自然の一部である。これは案外忘れがちな重要な事実なんだよなぁ〜。



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