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「つまらなさ」について思考してみる(「・ω・)「 〜前編〜


先日たまたま学生時代の教科書を読む機会があったのですが、
改めて読んでみると教科書ってびっくりするくらい面白くないですね。。

勿論、面白くないと知ってはいたのだけど、
これ程までにつまらなかったとは。。。

正直、十代の頃よりも年を重ねて経験や知見が少しは広がった今、
改めて読み直してみたら当時より幾分かは面白く感じるのではないかと思ったのです。

実際、「ああ、こんな事を習っていたのだったかなあ…」とか
「そうか、これはこういう構造なんだっけ」といったように、
当時を振り返る意味での面白さや知識としての面白味もなくはないのですが、如何せんつまらない……


しかし「つまらなさ」というものが原因で純粋な驚きが沸き上がるという経験は普段は案外とないものだったので、なんだか新鮮な感覚でもありました。


ここで、「教科書とはそういうものだから」と片付ける選択肢を敢えて放棄して「つまらなさとは何なのだろうか」という事について少し視野を広げつつ掘り下げてみました。



つまらなさって漢字にするとおそらく「詰まらなさ」と書くのだろうけども、「詰まる」は行き詰まる、目詰まり、といったように身動きがとれなくなることを表すので、詰まらないという事は「身動きがとれなくなることがない」という意味になる。
つまらないというのは行き詰らずに流動的に動くさまという事なのだろうか??


なんだかしっくりこなかったので調べてみました。


つまらないは、動詞「詰まる(つまる)」に打ち消しの助動詞「ない」がついた「詰まらない」。 「詰まる」は動けなくなる状態のほか、行動や思考が行き詰る状態も意味する。 そこから、「納得する」「決着する」などの意味を持つようになった。 やがて、「納得できない」の意味で「つまらない」が使われ、現在の意味に変化した。      

語源由来辞典より

納得する、決着する……なるほど。
つまらないって「納得できない」という意味からきていたのですね。

将棋などでも思考を続けた末に行き詰った状況を最終的に結果として対戦する両者で受け入れて納得し、決着をつけるのが「詰む」ですもんね。

その納得がないものが「詰まらない」。

これは腑に落ちました。


人は自分事として捉えられないと納得できないものなので、
つまらないというのは自分ごととして捉えられないという事でもあるのでしょうね。


逆に言えば全てを自分ごととして捉えることが出来ればつまらなさというのはなくなるという事でもあります。


如何に物事を自分ごととして思考し、自分ごととして関われるかによってきっと人生の面白さというのはまるで変ってくるのでしょう。

「モジ コトバ あれこれ」の過去記事でも少し触れたのですが、「コト」というのは意識を表すものなので、「自分ごと」というのは自分の意識ということでもあります。


世界を如何に自分ごとに見れるか

世界を如何に自分の意識であると認識できるか


宇宙を自分ごととして思考することによって初めて出逢うことのできるとびきりに面白い世界というのはヌーソロジーが教えてくれた事でもあるのですが、
次元を跨いで自己を拡張してくことは、自分ごとというのをどこまで広げられるかという事でもあります。

ありとあらゆるもの全てを本当の意味で「自分ごと」として捉えられた時に世界の本当の姿が見えてくるものなのでしょうね。



つまらなさについてのつまらない記事になっているのかも知れない….と思いつつ、つまらなさについての思考は更に後半へ続きます( •ω•ฅ)