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生徒の考えも進化するのです

「昔は、悪いことしたら、どついたら生徒は言うこときいとったんや」

「生徒は強制しないとあかん。昔はそうやったから、今の子は弱くなった。」

ということを、年配の方や同世代からも聞くことがある。

私も、勤めて間もなく、教師の立場が上で、生徒の立場が下だと思っていたから、そのように考えていた頃もあった。

しかし、今はそうではないと思っている。


生物というのは、日々進化しており、人もまた進化している。人の進化は生物的なことだけでなく、文化や思考も同じである。

「人は何のために学ぶのか」

この問いに対して、私の大好きな苫野一徳先生は

「自由の相互承認の感度を高めるため」

とおっしゃっている。

私は、このことを聞いた時、納得した。

人は、かつて狩猟の時代から自らの自由を求めて奪い合いをしていた。

それが地球規模の争いにまでなった。

しかし、人は自らの自由を得るためには戦うことではなく、お互いの自由を認め合う方が良いのではないかと考えるようになってきた。
これはとても最近のことだ。

そして人はお互いに「自由」を主張しても良いのだと気づいた。

例えば、今のアメリカでの問題にも当てはまる。

昔は、奴隷として生きることが当たり前で、「自由」を主張することなんかあり得ないし、考えもしなかったけれども、今は「自由」を主張しても良いということに気づき、そうなってもらっては困る「お互いの自由を認められない人」との対立になってしまっている。


正しく荒れる

これは最初の話と同じような構造のように思っている。

生徒は、教師に従うものだと教えられていた時代から、「自由」を主張しても良いと気づき、思考が進化してきているのではないだろうか。

その進化を「自由の相互承認」ができない教師が主張されれば困るので押さえつけようとしているのではないだろうか。

かつては、荒れた学校に鉄拳制裁で、ゴリゴリの生徒指導の先生が押さえていたら学校は落ち着いていると言われていた。

しかし、今は同じことをすると「自由」でいることがお互いのために良いと知っている生徒たちが正しく荒れる。
つまり、荒れさせまいと、押さえつけるが故に荒れる。(荒れるとは何かは今は深く語りませんが)

こんなようになっているように感じる。

公教育の進化はいつ?

そこんとこに気づがなければいつまで経っても公教育は進化しない。

時代の流れを掴み、昔の教育観から進化した考えを持っている人が教師にならなければ、まだまだ昔を引きずってしまう。

しかし、進化した考えを持っている人は、今の教育界へはなかなか足を踏み入れようとはしないだろう。
だってちゃんと世の中のことをわかっているから。(今いる教師全員が世の中のことをわかっていないと言っているわけではありません)

そのために、まずは教師の、働く環境を本気でなんとかしないと人は集まらない。

いつになるやら…



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