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すそに向かって広がりたい

 春になった。後輩ができた。

 しのやま、です、よろしくお願いします。ぱちぱち、ぱらぱら…。ご迷惑をおかけするかもしれませんが…云々。

 「どうも、教育係のわたしです、好きなように呼んでください、よろしくね」
「宜しくお願いします。じゃあ…ちゃっぴーでいいですか?」

 わたしはちゃっぴーに生まれ変わった。

「トイレはあっち、お昼は食堂が安い、近くの蕎麦も安いけど、会社の人がいっぱいいる。二つあるパン屋さんのイートインは空いてるからいいよ。あとはカフェがいくつか、定食屋さんとラーメン屋とういろうと…」
「調べますから大丈夫ですよ」としのやまが言ったので安心した。
「全部一緒に行きましょう」

 それからほとんど毎日のお昼ご飯を一緒に食べることになった。
 しのやまが好きな銀だこを1ヶ月毎日食べたことがあった。私たちは好きなものを毎日食べても飽きることがないらしかった。それについてしのやまは祝福すべきだ、と言ってまた24個入りの銀だこを買ってきたので、ふたりで食べた。何度もスタンプカードが貯まって、貯まった。スタンプは貯まるだけで、全部貯まっても割引とかに使うことはなかった。ただスタンプの押し方が真っ直ぐだったり、斜めになっていたりしていて、それについて話すことはときどきあった。大半は、右に傾いていた。
「これスタンプ揃えて42枚集めたら、願い事叶うきがします。でも2人で集めてるから、私の願い事とハーフアンドハーフになりますよ。ちゃっぴーは何にしますか?」
「夏をなくして欲しい」
「私は梅雨なくして欲しいです」

▷▷

 新宿駅前で会社の人たちと飲むことになった。私としのやまと、すんすんと課長。すんすんは長髪を頭でまとめて眼鏡、髭。オレンジ色の涼しげなシャツ、格好は涼しげだが、見た目は暑そう、お香の匂いがする。
「ほなたこ焼きやっつでええ?」とすんすんがゆっくり言った。

「あのう、会社のエレベーターって4つでしたっけ」としのやまが言った。
課長が「基本は3つだね」と言って、みんな頷いた。
「でも、たまに4つや」
「今日、昼休み終わって戻る時、エレベーターきたから乗ろうとしたら、いつもないはずの左の奥側に乗ろうとしちゃって。怖くなってとりあえず見送ったんです。そしたら後ろから来た男の人が走って乗っていって。アレって…怖いんですが」
 みんな黙っていた。特に4つ目に乗ることで、何かが起きることはないからだ。4つ目はちゃんと私たちを降りたいところまで送っていってくれる。
「乗っても他のと変わらんで。ちょっといつもより着くまで長い気いするけど」
「まあ、怖いなら乗らなくても大丈夫だよ」
と課長が締め括った。
 帰りに一度会社に寄ってみたが、エレベーターは3つだった。

 4つ目のエレベーターには、ときどきパッピーが乗ってくる。パッピーは乗ってくるだけで何もしてこないし、寧ろほんのり甘い香りがして、落ち着く、くらいはしのやまに言っても良かったかもしれなかった。パッピーは背が低いので、背伸びしたりジャンプしたりして、上の方のフロアのボタンを何度か押そうとするのだけど、押せなくて諦める。可哀想なので、どこでもいいから適当に上の方のフロアを押してあげると、その黒いもじゃもじゃを揺らし、大きすぎる目を細めて、『ありがとう』みたいな意味の言葉(口はないからなんで聞こえるか分からないけど)で会釈してくれる。可愛いけど、一緒のフロアで降りてはいけない、と課長もスンスンも言っていた。
 パッピーに興味を持ってはいけない。

▷▷

 仕事は、コンピュータを使ったり使わなかったりする。話し合って、何も決まらなかったり、課長は大体何かしらの作業をしているけど、スンスンはぼおっと天井を眺めていることが多い。しのやまはそんな私たちを時折、ポラロイドで撮ったりして、飽きたらスマホをいじる。私たちは定時間、何かしらをしている。していないこともある。気が向いたら書類を作る。書類の作り方をしのやまに教える。時々、ポラロイドで撮った写真を貼り付ける。観葉植物を買ってきて置いたり、理想のオフィスについて話し合い、作ってみたりする。そういえば、「理想の」何かについて考えることは多いかもしれない。

 ある時は、理想のカニについて考えた。
 その時はしばらくは遊んで暮らせそうだった。

▷▷

 数日だけの梅雨が明けて、スンスンが住む湘南でBBQをしようということになってしのやまと湘南に向かった。
「ちゃっぴーのフレアデニム可愛いですね」
「ありがとう」
「フレアっていいですね。滑り降りて、最後にくるっとこうとべそうです。尻上がり、裾上がり?」
しのやまはそれから人生について話し始めた。江ノ電の揺れ、湘南の海の景色とか波音とか潮風とかが、しのやまにそういうことを話させたらしい。

 BBQ。結局たこ焼き器でたこ焼きも作った。

▷▷▷

 しのやまが、会社を辞めることになった。それは喜ばしいことでもあり、寂しいことでもあった。
 「ちゃっぴー、私、この仕事辞めることになりました」
「うん」
「ちゃっぴー、寂しくないですか?」
「う、うん」
「寂しいですよね。私も。この2年間ほとんど毎日顔合わせてたし。雨の日の帰りは、駅まで同じ傘に入って帰ったり」
「しのやまは、傘持ってきたこと、一度もなかったからね」
「私傘ってやっぱりまだ怖くて。覚えてますか?昼休み、商店街の入り口で、キノコ見つけたこと。私まだあれ育ててるんですよ、毎朝お水あげる時、ちゃっぴーのこと、思い出すとおもいますし、そう思います」
「そっか、うれしい」
「あと、昨日もらった一本満足バー、美味しかったです」
「それはなにより」
「他にもいっぱいあるけど楽しくて、勉強になりました、これは餞別の品」と言って、しのやまはキットカットの、一本になってる太いやつをくれた。110円のシールが貼ってあり、その横に、何か文字がびっしりあったが、赤いパッケージに黒のマジックで書いてあったから、ほとんど読めなかった。『どこへいっても、これからも頑張ってください!応援しています』と読み取れた部分があって、まるで私がいなくなる、みたいだった。

 そうしてわたしは、元のわたしに戻った。それでしのやまと一緒に、ちゃっぴーはいなくなった。どこかでしあわせに暮らしている、と思う。

▶︎▶︎

 曇った日曜日だった。すっかり草が緑の葉を伸ばし始めた。ガジュマルがまた成長を始めた。
 映画を見た帰り、新宿駅南口で、帽子を目深に、コートで身を包めた足早に去っていった女がいて、後ろ姿が、ちゃっぴーにそっくりだった。その数十メートル後ろを、フレアデニムの女が追いかけていった。


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