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【短編小説】小窓【桜色】


 桜色の爪がうらやましかった。私は、常に自分の手を隠しながら彼女に話しかけていた。
 モデルをしているという噂もあった。ハンドクリームとか、マニキュアとか、そういった「手」を専門にするモデルがいるらしい。彼女は「やってみたいなぁ」と言って笑っていた。私は本心から「××ならなれるよ」といった。彼女の手は常に美しく整えられていて、爪も文句なしに綺麗に切られて、やすりがかけられていた。
 私は、常に自分の手を隠しながら彼女に話しかけていた。それは、彼女にも伝わっていたのだと思う。
 私の誕生日。六月のことだった。梅雨入りしたのかしてないのかを気象庁が決めあぐねている中で、私は沢山のプレゼントをもらった。ハンカチ、シャープペン、キーホルダー……どれも私のセンスでは絶体に買わない類のもので、安定した日常に変化が生じたような気がして嬉しかった。××も私にプレゼントをくれた。気に入ってもらえると嬉しいな、という一言と共に差し出された箱の中身を、私は即座に投げてしまった。
 どうやら、最近の瓶は頑丈らしい。
 小さな小瓶の中にはどろりとした塗料が詰め込まれていて、これはつまり、巷で言うマニキュアというものであった。私は爪を見た。幼少の頃からがじがじにかみ砕かれて、不格好なカタチの十枚の爪。私は驚愕した。これにマニキュアを塗れと××は言うのか? 私はどうしたものかと考えた。透明で、小さなラメがパール状に輝いている液体を眺めながら、私は考えた。考えている間に爪を噛んだ。僅かに伸びていた右の親指の爪を、剥ぎ取るようにして噛んだ。赤ん坊みたいだ。指をしゃぶる赤ん坊みたいだ。先ほどよりもずっと醜くなった爪を見ながら、私は「ダメだな」と思った。こんな可愛くない爪に色を塗ったところで、爪の醜さが目立つだけになる。
 私は考えた。そして学校にマニキュアを持っていった。××に「プレゼントありがとう。でも私にコレは似合わないから返すね」と告げる練習もした。
 でも言えなかった。彼女は私がそのセリフを吐く前に「プレゼント、どうだった? 気に入って貰えたらうれしいな」という先制をしかけてきた。私の「似合わないから返すね」という言葉は舌の付け根どころか肺の奥底でぐるぐると停滞して終わった。彼女は丁寧に私にマニキュアの塗り方まで教えてくれた。そのとき、決して私の爪を使おうとはしなかった。彼女の桜色の爪の上に、透明な艶が生まれるのを、私は黙って見つめていた。きっと魔力があったのだろう。私は「似合わないから返すね」の代わりにとんでもないことを口走った。
「ぬ、塗ってくれないかな」
 ××は私の顔を見た。
「あなたの爪に?」
「あ、ごめん、」私がそう言う前に、××は私の手を取った。そして、何かものすごい宝物を見つけたかのようにして顔を輝かせた。
 まるで何かの手術でもするのかと言わんばかりの、様々な金属製の道具がポンポン登場する。××は私の爪にヤスリをかけて、可能な限りそのカタチを丁寧に整え始めた。そして、下地の塗料を塗り始めた(ベースコート、というらしい)。私は何を喋っていいのか分からなくて終始黙っていた。彼女の爪を彩っていた桜色の液体が出てきた時も、「終わったよ」と言われたときも黙っていた。
 私の爪は今までに見たことがないくらいに美しく整えられていて、彼女は優しく微笑んでいた。そして、除光液をくれた。
「使いかけで申し訳ないけれど」という言葉を添えて。
 つやつやと輝く私の爪は、××のそれよりもずっと不格好だったが、私の爪にしては上等な出来であった。私は私の爪の向こうに桜を見た。沈黙したまま感極まる私に対して、××は声を荒げたり、お礼を催促したりはしなかった。まるで私の顔を見れば全部分かると言わんばかりの、自信に満ちた顔で笑っていた。私はその顔をつい先日みつけた。地域の情報紙で特集されていたネイルサロンのオーナーとして、彼女の顔が掲載されていたのだ。
「行ってみようかなぁ」という呟きに対して、「どこに?」と旦那の声がした。
「ネイルサロン」と答えると、「いいじゃん。行っておいでよ」と返ってきた。私は「ありがとう」と言った。旦那のこういう所が好きなのだ。私は未だにやや不格好な爪を見た。それでもあの日以来、私は爪を噛まなくなった。爪を噛みそうになる度に、彼女の顔と桜の色が脳裏にぱっとよぎるようになって、せいぜい歯形が残るだけだった。
 彼女に会いに行ったら、どんな顔をするのかな。
 また桜色に爪を塗ってくれるかな。



 シロクマ文芸部
「桜色」より

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)