父の日と父の自死と私の思い

なんか書きたいけど何かまとまらない。そういう日があるのは文章を書いたことがある人ならわかると思う。

私は私の話をしたい。毎年この時期は不穏だ。なぜかというと父の命日だからだ。だから百貨店や駅ビルの「父の日フェア」をみると毎年凹む。とはいえ父親がいる人にとっては当たり前のイベントなわけだし普通に祝うといい。だけどその中で父のいない人間のことを慮ってくれる人がどれくらいいるかと思うと、私は正直期待できない。

最近何においてもそうだ。ここ最近は「引きこもり」が良くテレビなどで取り上げられるが、社会的弱者は人間が社会を作って生きようとする限り必ず存在する。ということに関して無関心、もしくは批判的な人が多いように思う。自分は絶対弱者にならないと思っている人達のことだ。福祉の場にいるとすごくそれを感じる。明日は我が身かもしれないことがたくさんあって、障害者やボーダーラインにいる様々な困りごとを抱えている弱者側にいる人たちと私達に違いなんてない。それが経済のせいで明確にヒエラルキーができつつあるのが腹立たしいのだ。

私は場によっては福祉業界人だが、それ以外の場では自死遺族当事者なのだ。父親の倒れている様や首を絞めて死んだ人の顔、やってくる警察と救急と非日常は私にとって日常だ。でも周りの人たちは親の首を絞めたうつ伏せになり自重で多少潰れた顔の様なんか知ることもないし、そういうのを見た人間がいるということも想像なんでできないで世の中の肯定的な面をみて生きているのだろうと思うと、どうにも埋められない隔たりを感じる。それは私が彼女らに私の側まで落ちてこいと思わないからだ。

たまに遺族支援をしている電話相談に話を聞いてもらう時がある。そうすると少しだけ気持ちが軽くなる。私は私が見つけた世の中の肯定できる部分を大切に守り引き継いで生きていきたいと思っている。

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