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『服と人 −服飾偉人伝』 VOL.2

日本ファションブランドをこの人・このブランドを無くしては語れない。
そんな偉人の生き方を通じて、ファッションだけでなく生きるヒントを伝えたい! その想いで、YOUTUBE動画を制作しているのが「服飾偉人伝」です。2回目より、動画を撮る上で制作した原稿をこちらに公開していきます。「読む服飾偉人伝」として楽しんでいただければ幸いです。
動画で見たい方は、ページ下部までスクロールをお願いします。

第2回目を作るのは、1回目から3ヶ月以上も先になりました。
それはコロナの影響によって、自由な外出を奪われてしまったから。熱量もしかり、制作に没頭するための場所も奪われてしまった。
でも、この偉人の生き方を知った時、自分の強い意思と希望があれば、人生は思いのままになるのかもしれない。そのような強い衝動に駆られ、彼女にスポットライトを当てたくなりました。それが『コシノジュンコ』です。

ちなみに、1回目の主役はこの方です、こちらからどうぞ。↓

 

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画像引用:http://junkokoshino.com/

01:言葉

コシノジュンコが発する言葉は、いつも強い意思と希望に溢れてる。
その素敵な言葉の中からピックアップしたいのがこちら。

"幸せを呼ぶ服を、私は『幸服(こうふく)』と呼んで、理想に掲げています。"
"「好きこそ物の上手なれ」と言うように、なにより「好き」が大事。その「好き」を突き詰めていくと、やがてオリジナルになっていく。"
"「向こう岸、見ているだけでは渡れない」最初から結果を恐れていたら何も生まれない。思い立ったら即実行。"

02:生い立ち

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画像引用:日本経済新聞電子版(私の履歴書)

コシノジュンコは1939年、大阪府岸和田市にて誕生。
3940グラムとまるで男の子のような立派な出で立ちで誕生し、家族を驚かせたと言う。病弱な姉ヒロコに反し、やんちゃに成長するジュンコに周りは手を焼いたようだ。
1940年代。日本は戦局が悪化し、ジュンコが2歳の時には太平洋戦争勃発。父親の元にも当然『赤紙』は通達され、一家の長である『父親』が不在の中を洋装店を営む母親が、一家の大黒柱として家族を養った。母を通じて自分に何が出来るかを、幼い頃から模索するような子供だったと言われている。

03:母

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画像引用:日本経済新聞電子版(私の履歴書)

女性が男性のように、自由意思で生きられない時代の中で、母親である綾子はそれに戦ってきた人でした。
岸和田のだんじり祭りは、男性のみ演者となり女性は見守るだけ。このような男性と女性の在り方に疑問を唱え、女性であれど「好きな事をして生きていく道」を選択したのです。それが、父の呉服屋を継がずして築き上げた洋装店でした。
また、綾子(母)は自由放任と平等主義。娘たちがどんなにケンカしようとほったらかしで「負けるのは自分のせい。欲しいものがあるなら、自分の実力で勝ち取れ」という口癖があるほど欲望に忠実で、努力を惜しまない人間だったと言われています。

04:姉妹

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画像引用:日本経済新聞電子版(私の履歴書)

コシノジュンコは、姉ヒロコ、妹ミチコに挟まれた三姉妹の次女。
この三姉妹は、仕事一筋の母に幼少期は構ってもらえなかったようです。

○姉のヒロコは、誕生後まもなく祖父母に預けられる。
初孫という事もあり甘やかされ育てられ、病弱で繊細、感の鋭い子供に育った。

○反対にジュンコは、長女の子育てに関われなかった事への母の後悔もあり、家において育てられた。
しかし仕事と天秤にかけては「仕事」が「娘」を超えず、結果的には周り近所へ、お米やおやつと一緒に預けられた。

○ミチコは、母が育児に一切関わらず、弟子や祖母に育てられた。

母の仕事である洋装は、母親の愛情を奪うライバルのようなものだったかもしれない。しかし、その愛情を理解するために、コシノ三姉妹は、三種三様デザイナーの道を選択したように思える。

05:転機

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画像引用:日本経済新聞電子版(私の履歴書)

物心ついた時から絵が得意で、才能を認められていたジュンコ。高校を卒業後、大阪の洋裁学校「マロニエ文化」への進学を自らの意思で決める。しかし、3か月で辞めると姉と同じ、文化服装学園へと入学した。姉とは、お互い絵への情熱が深かった分、比べられることを嫌った。
だからこそ、姉と同じデザイナーの道で自分の持ち味や才能がどれだけ評価されるのか確かめたかったのではないだろうか。

花の9期生時代
文化服装学園で出会ったのが、後に世界的なデザイナーになる高田賢三(ケンゾー)、松田光弘(ニコル)、金子功(ピンクハウス)だ。1年の基礎課程を経てデザイン科で出会ったジュンコらは「花の9期生」と呼ばれ、切磋琢磨し、助け合う生涯の友になる。大いに学び、大いに遊んだのはむしろ学校の外だった。新宿のジャズ喫茶「キーヨ」に入り浸り、交流の輪を広げ、気の合う仲間たちと芸術論、映画談議、恋愛話などに明け暮れたという。

装苑賞
格好の腕試しになったのが数々のデザインコンテスト。なかでもデザイナー志望なら誰もが憧れる「夢」がある。装苑賞――。そのチャンスを若干19才の若さでものにしたのだった。受賞作はコバルトブルーのコート。

06:功績

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画像引用:日本経済新聞電子版(私の履歴書)

◆東京コレクションの礎
1974年デザイナー集団「トップデザイナー6(TD6)」を旗揚げ。国際競争を意識した日本で初の試みだった。メンバーはジュンコのほか、松田光弘、金子功、菊池武夫、花井幸子、山本寛斎各の6人。春秋年2回、ショーを同時期に集中開催することで世界に向けた情報発信力を一気に高めようというのが狙いだ。6人で始めたこの試みは、のちに東京を世界のファッション都市として押し上げる結果となる。それが東京コレクションである。東京から多くの日本人デザイナーたちが世界のひのき舞台に飛び出していった。

ファッション文化の伝道師
1978年、ジュンコは待望のパリへ進出し、世界へ目を向ける。その後、中国、キューバ、ベトナムでショーを開催した。それらの国では、ファッションはまだ新しい概念。ショーを見るのも開くのもまったく慣れていない人々が初めてファッションへという新しい概念への感動を覚えたのだ。
まさに、「ファッション文化を伝える伝道師」である。

07:コシノジュンコとは?

◆折れないハングリー精神
幼少時代のジュンコは綾子(母)顔負けのやんちゃ小僧で、男が主役のだんじり祭りにも、自ら懇願して男に混ざったという。
また、姉と同じデザイナーの道も誰に反対されようと自分で道を切り拓いてきた。このハングリー精神こそが日本のファッションの存在価値を高め、未開の地を開拓していったのである。

サイケの女王
まだ今のようにSNSもない時代。ジュンコは「サイケの女王」と異名を残すほどのインフルエンサーでもあった。その異名は、ミシンの前で生まれたものではなく、夜の街であった。著名人が入り浸るお店に身を置き、夢を語らい徹夜で遊び、気が付けば雲の上の存在との仕事をしている。引き寄せの達人である。つまり、『好きなことをして生きる』と言う現代人のユニークワードを、自らの生き様をもって証明している。

引き寄せの達人
自分にとって大切な望みを、強く成功したときのことをイメージすることで、その夢が叶うという法則、「引き寄せの法則」。
この法則において、「宇宙理論」という考え方がある。人々のマインド=エネルギー、楽しさや安心、感謝といったプラスマインドでいる方が、望みを引き寄せるエネルギーが強くなると言われています。やりたくない事・やらなければいけない事より、やりたい事・好きな事を優先で生きる事で、人のポジティブなマインドは持続します。
つまり、好きな事で成功するというマインドを、遊びながら持続させ「仕事上のチャンス」は引き寄せたとも言える、ジュンコの姿はまさに達人と言えるでしょう。


あとがき

コロナウィルスの影響により、自分の人生に疑問をもったり、絶望を感じている方もおられるかとは思います。変化の時には良い刺激と捉えるか、悪い兆しと捉えるかで人生は分岐します。でも強い意思と希望があれば、誰に反対されようと「好きな事で生きる」事は実現するということをコシノジュンコは教えてくれています。この記事が、誰かの生きやすい未来に繋がる事を祈って、最後を締める事にします。ここまで文字を追って頂いた皆様、ありがとうございました。

偉人へのリスペクトの意味を込めて、「大人の自由研究」をテーマにドキュメンタリー仕立てに動画版は制作しております。ぜひ、YOUTUBEも見てみてください。(チャンネル登録もお願いします!)


さあ、次回はあの方をフォーカスします!お楽しみに〜!!



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