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『服と人 −服飾偉人伝』 VOL.7

日本ファションブランドは、この人・このブランドを無くしては語れない。
そんな偉人の生き方を通じて、ファッションだけでなく生きるヒントを伝えたい! その想いで、YOUTUBE動画を制作しているのが「服飾偉人伝」です。動画を撮る上で制作した原稿をこちらに公開していきます。「読む服飾偉人伝」として楽しんでいただければ幸いです。
動画で見たい方は、こちらから再生できます。


さて、今回は7回目、KENZOデザイナーの高田賢三 編です。
2020年10月頭、日本を代表するファッションデザイナー高田賢三氏の訃報には、世界中のファッション業界から悲しみの声が上がりました。
私たちは、”日本を代表する”とか、”パリを拠点にモード界の道を切り拓いた先駆者”と評される高田賢三氏について、悲しみに暮れるパリの市民よりも私たち日本人が理解していない事が、少し残念なことだと感じました。
まだファッション業界で活躍する日本人が少ない時代に世界に目を向け、礎を築いた人…そんな高田賢三の人生をちゃんと知りたいと思い、敬意をもって足跡を追いました。私達なりに、追いかけたKENZOのストーリーをぜひ最後までご覧ください。 

ちなみに6回目の主役はこの方です、こちらからどうぞ。↓


01.言葉

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高田賢三は、天真爛漫な人である。幾つになっても遊び心を持ち続け、人生を楽しんでいる。そんな彼の言葉を紹介したい。

"冒険心が私の人生と創造の原動力"
"何ごとにも縛られず、恐れることもなく、自由を謳歌してきた。今後も『夢追い人』であり続けたい。そんな決断を新たにしている"
"子どもっぽいと人から笑われてもいい。失敗を恐れず、果敢に挑戦する"
“ファッションは少数の人のためのものではなく、すべての人々のためのものです”

02.生い立ち

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KENZOの創業者である高田賢三は、1939年兵庫県姫路市に生まれる。電力会社を脱サラし、花街で待合「浪花楼」を営む父親と、社交上手でしっかり者な母親に育てられる。賢三は、五男二女という大家族の中の三男である。

長男や次男とはかなり年が離れていた為、幼い頃は姉2人と遊ぶことが多かった。運動があまり得意ではなく、臆病で内気な性格だった事もあり、もっぱら姉達と布や毛糸で遊ぶのが好きだったという。当時の事を記した一説がある。

”座敷から小粋な長唄や三味線の音色、芸者の嬌声がほのかに聞こえてくる。友禅、紡、縮緬……。私は和箪笥や押し入れにしまわれた鮮やかな反物や毛糸玉で遊んでいるのが好きだった”
夢の回想録 高田賢三自伝』より

小さい頃から2人の姉に影響を受け育った賢三少年は、「ひまわり」や「それいゆ」といった少女雑誌に夢中になる。お目当ては、掲載されていた中原淳一氏のイラストで、見様見真似でイラストの模倣をしていたと言う。これがファッションデザインに興味を持つきっかけとなる。

また、賢三少年が熱を上げていたのが『映画観賞』や『宝塚歌劇』。今のような娯楽がほとんどない時代、スクリーンの中や舞台の上の異国の世界に心を奪われていたと言う。

03.挫折と葛藤

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賢三は小学6年生の時に、ある才能が開花する。イラストの模倣から書き始めた絵が、市のコンクールで認められたのだ。その頃から賢三は、絵に対して自信を持つようになり、進路は当然のごとく美大を渇望した。しかし、父親が糖尿病を患い、他の家族も病気持ち。美大受験のための費用がない事から断念する事になる。

それならばと、長女と同じ洋裁学校への入学を試みるが、花嫁修行の色彩が強い、当時の洋裁学校では男子の入学を認めてもらえなかった。
そんな挫折の中で選び出したのが「英語」。義兄が勤める神戸の貿易会社で働けば、海外での仕事を得る事ができる、憧れの海外生活へつながるのではないか…。そんな淡い期待の元に、商社へ就職。夜は神戸外語大へ進学し、英語を学びながら仕事を覚えた。しかし、ハードな二重生活と現実の職場環境とのギャップでモチベーションは続かなかった。

そんな最中、転機は突然やってくる。神戸外語大へと通う電車の中、車内の中吊り広告に目を奪われたのだ。

『男子の洋裁学生 初めて募集 文化服装学院』

人生への情熱を取り戻した賢三は、あっさりと神戸外語大を辞めてしまう。そして東京生活の資金を稼ぐためアルバイトに明け暮れ、2ヶ月で上京資金を貯め、着替えだけを持って上京する。

家族の反対を押し切り上京してきた手前、金銭面では頼れず、住み込みで働きながらデザイン画を学んだと言う。賢三は、その苦労もあって文化服装学院への入学という夢を叶えたのだ。

04.出会い

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画像引用:https://fashionpost.jp

文化服装学院に入学して2年目、デザイン科に進んだ高田賢三は、水を得た魚のように輝き出す。それは尊敬できる恩師と切磋琢磨できるライバルに出会ったからだ。後に世界的なファッションデザイナーとなる、コシノジュンコ 、松田光弘(ニコル)、金子功(ピンクハウス)ら、通称『花の9期生』と呼ばれる同期たちとデザイン科を創設した小池千枝氏との出会いが、高田賢三の運命を変えていったのだ。

モットーは『よく学び、よく遊べ』。

同期でつるんでジャズ喫茶に入り浸り、文化談義に花を咲かせたり、繁華街のバーで朝まで酒を飲み明かす。校外では、そんな生活を送りながらも校内ではライバル。おのおの隠れてコンテストには応募していたと言う。

装苑賞

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若手デザイナーの登竜門であり、9期生の仲間たちの共通の目標ーそれが”装苑賞”。しかし大賞争いで先行したのは、コシノジュンコだった。
『史上最年少受賞』と派手に騒がれ、それが賢三の闘志に火をつけた。
寝る間も惜しんで隠れて努力し、同年の半年後に賢三も装苑賞を受賞する。

装苑賞の受賞で、賢三を取り巻く世界はガラリと変わる。雑誌社からのデザインの仕事が舞い込むようになり、卒業後アパレルメーカーである”ミクラ”や”三愛”に入社するが、副業で雑誌社からの仕事は続けたという。

05.転機

ジュンコ

画像引用:日本経済新聞

1964年、コシノジュンコがパリへ渡たる。彼女はこの時すでに独立し、銀座の小松ストアーで自分のコーナーをもっていた。学生時代のライバルが、憧れの地へ誰よりも先に行った事は、またもや賢三を刺激した。

”またもやジュンコに先を越されてしまった。僕も早くパリに行かないと……”

ところが、夢のような出来事が起きる。
住んでいた六本木の高級アパートが改築になり立退料として10か月分の家賃25万円が転がりこんだのだ。賢三はこのお金を元手にパリへ渡航する。同行者は、当時”三愛”の同僚でもあった松田光弘。パリへは各経由地を観光出来る船で向かった。香港や、シンガポール、インドなど今まで見た事のない異国の地で衣食住を垣間見た経験が、のちにデザイナーとして認められる作風の貴重なピースとなったのだ。

賢三はこのパリへの渡航を単なる旅行として捉えていなかった。その為、帰国するためのお金は用意してなかったという。一緒に観光を楽しんだ松田光弘が帰国すると、1日9フラン(※日本円で660円)の屋根裏のホテルに移った。食料や卓上コンロを買い込み質素な自炊生活を続けながら、パリでの生活を持続させたという。わずかな収入源は、街角スナップをカメラで撮影して記事を書き、日本の雑誌社から得ていた。

賢三は、節約しながら屋根裏から見下ろすパリで、自身が何もチャレンジしていない事に疑問を持つ。

”このまま帰国したらきっと後悔するに違いない。
失うものはなにもない。当たって砕けろの精神だ!” 

その瞬間おもむろに画用紙に向かい、一心不乱にデザイン画を描き始めたという。アジア、中東、アフリカ、欧州……。各地で吸収してきたすべてをたたきつけるように数十枚を一気に仕上げ、翌日には、つたない英語を使い、ブティック「ルイ・フェロー」にデザイン画を持ち込んだのだ。感想を聞くつもりで持ち込んだデザインは、1枚25フラン(※日本円で約1800円)で売れ、この出会いが追い風となり、雑誌「ELLE」を含め名だたるブティックやアパレル企業で、賢三のデザインは売れ始めるのだ。

06.酔いどれの時代

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画像引用:日本経済新聞

賢三はデザイン画が売れ始めてから、パリでの居場所を確固たるものにする。人が幸運を運び、新たな仕事や高級アパート、車までをパリで手にしたのだ。その真骨頂が自身のブランドであった。

ルーブル美術館のそばで”ジャングルジャップ”という自身のお店をオープンする。全ての幸運は、賢三の「遊び心」が引き寄せたものだった。学生時代からの、『よく学び、よく遊べ』の精神で、バーやカジノでお金がすっからかんになるまで毎晩遊ぶ。その社交場で、カール・ラガーフェルドやイブ・サンローラン、アンディ・ウォーホルとも友達になってしまうのだ。

賢三のブランドは、まるで酔っ払いで絶好調の夜のようにパリで大躍進する。オートクチュールからプレタポルテへの移り変わりや、まだ見ぬアジア人の感性などがパリ市民にとっては鮮烈に映ったからだ。また、宝塚歌劇歌劇の豪華絢爛なショーを見て育った経験が、ファッションショーの演出にも革新をもたらし、パリでは革命児としての存在になる。

07.木綿の詩人/色の魔術師

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画像引用:https://www.fashionsnap.com

賢三は、既存の概念に囚われない自由な人間だ。それは、幼少期の少女趣味に疑問をもたないように、ジェンダーや人種などそこに存在する既存のボーダーをいとも簡単に撃ち壊すのだ。その一つが、素材選びである。夏用の素材とされていた木綿を、冬でも温もりを感じられるように表現したり、体をきつく締め付けラインを強調する服が流行していた時代に、ゆったりしたシルエットの着やすさを重視した服作りを追究した。

また賢三の作る服は、旅の記憶だ。幼少期にインスピレーションを得た映画や舞台の世界、船旅で訪れた世界各地の情景…それが華やかな色彩、大胆な柄の組み合わせなど想像力豊かに落とし込まれ、人々を魅了させたのだ。それが、”木綿の詩人や色の魔術師”という異名が付けられる所以なのだ。

08.KENZOとは?

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画像引用:https://icon.ink

不器用な夢追い人
自身のお店”ジャングルジャップ”をオープンする際、賢三は内装にアンリ・ルソーの『夢』をモチーフにした、ジャングルを描いた。まさしくその場所は彼自体が信じてきた夢を実現した場所だった。

しかし、”JAP”という表現は差別的な商標であると、批判され”KENZO”と名称変更する事になる。そして自身の名前を付けたブランドは、ライセンスビジネスによりブランドネームのみが一人歩きするようになり、自分が表現したかったことを見失ってしまう。
1999年一流企業の”KENZO”へ変革していく中、賢三は30周年の節目に惜まれながら、自身のブランドを退くのだ。

賢三は夢を引き寄せる力も強かった分、失うものに気がつかない鈍感さもある、そんな不器用な人間でもあったのだ。

時空を漂う旅人
賢三とは、時空を漂う旅人である。船旅で日本から来た彼は、それからの人生も服を通じて「航海」を続けていたのだ。旅のテーマは一貫して『全ての人を楽しませる』事。人種や年齢、セクシャリティなどのボーダーを超え、多様性を認め合える世界へ向けた幸福なメッセージ。それが高田賢三の服作りなのだ。

2020年10月4日
高田賢三は、人生の半生を過ごしたパリで永眠
パリで行われた追悼式には、たくさんのパリ市民がお別れを告げた

彼はきっと次の夢に向かって船を漕ぎ始めているだろう。

あとがき

激動の時代となった2020年。大きな生活の変化によって自分の人生を見つめ直すきっかけになった方も多くいるだろう。そして、この変化によって夢を諦めてしまう人もいるかも知れない。しかし、どんな状況でも夢を叶えるのは、自分を信じる心の強さと夢に駆ける情熱だと賢三は教えてくれている。
また、人生を楽しみながら夢を引き寄せる高田賢三の生き方は、頑張り過ぎているあなたや、辛いことを耐えた先に夢が叶うと思っているあなたには、もっと軽やかに生きるヒントとなるだろう。
”頑張る=我を張る”のではなく、”楽しむこと”で軽やかに新たな出会いや、チャンスは引き寄せられるのだ。子供の頃のように無邪気に、自分のやりたい事に熱中する。興味関心は、その瞬間事に変わっても良いのだ。そんな楽に生きるヒントを賢三は教えてくれている。


あなたが楽しみながら進んだ先に、素晴らしい未来の道は続いているのだと。


■服飾偉人伝VOL.1
https://youtu.be/zRz76xOatXQ

■服飾偉人伝VOL.2
https://youtu.be/bbp3UYKHZAk

■服飾偉人伝VOL.3
https://youtu.be/wJovtKYQNFQ

■服飾偉人伝VOL.4
https://youtu.be/DKqZy4Kuswk

■服飾偉人伝VOL5
https://youtu.be/zf5BW5vYvrE

■KENZOをもっと知る
HP:https://www.kenzo.com/eu/ja/home

■関連書籍
・「夢の回想録」
高田賢三著 日本経済新聞 出版
https://amzn.to/3mkSAXe

・「装苑 SO-EN 2002年4月号 森万里子の世界」
高田賢三インタビュー掲載 文化出版局
https://amzn.to/2VhvKUq

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