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BA Meeting|A&A Japan 9

年2回、BA Meetingと称する商談会がA&A極東各オフィスで行われていたのは、Tandy全盛期の80年代でした。

BAとは当時Radio Shack社長だったバーニー アペルのイニシャルからきていました。春と秋の年2回、東京、ソウル、台北そして最後が香港という日程で2〜3週間に及ぶ買付商談会でした。

当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの買付けパワーのあったRadioShackには、数多くのOEMオファーが目白押し。家電、オーディオ製品、玩具や部品メーカーさんから上場企業含めて受付では商談待ちの行列が出来るほどでした。

Radio Shack Store

80年代はパソコン時代の幕開けで、電卓にBASICプログラム機能が付いたポケットコンピューターがカシオとシャープからのOEMで大ヒット。そして、Microsoft、ASCIIがソフトウェア開発、ハードウェアを京セラが開発製造した世界初のモデム内蔵のA4サイズのModel100 ノートブックは、BASIC、スケジュール、ワープロと通信機能でパソコン夜明け前を予感させる更に大ヒット商品となりました。

80年代 TRS-80パソコンシリーズ幕開け

プリンターは、まだカーボンコピー対応でデイジーかワイヤードット式印刷でしたが、キャノンのカラーインクジェットやリコーのレーザープリンターを世の中に出していったのもTandy、Radio Shackでした。

北米で7-11より多いと言われた7000店舗数を有し、各店舗に陳列用1台に在庫1台から最低15000台が初回注文の台数。製造ラインを流すには最低1000台の注文が必要なメーカーさんからは充分魅力的な数だったと思います。

メーカーの立場で言えば、新製品の北米市場テストにRadioShackはもって来いのターゲットになっていたはずです。北米市場で成功すれば、日本市場や他国での可能性も拡がります。

BA Meetingにおける準備、商談中の緊張とストレスは大きなものでした。例えば、商談は価格だけでなく、機能仕様と開発日程も厳しいチェックが入りました。

今のような看板方式でなく、船積み後L/C at sight決済の支払い条件も古き良き時代で、船積港で通関された時点から販売側が在庫責任を持つFOB契約が殆どでした。またクリスマス商戦の商品については、開発日程管理は、特に厳しいものがありました。カタログやフライヤー印刷され、新聞広告の折り込みに入るわけですから、開発遅れでカタログ落ちは決して許されるものではありませんでした。

当時はまだ紙媒体のカタログやチラシ全盛期

数多くの商談をこなすBAにとっては、アジェンダから比較表などの資料が書式はもとより、ホッチキスの位置や角度まで寸分違わず同じである事は必須でした。そうどの国の営業部署の誰が作成してもです。それが違うと商談席上でも罵倒と共に書類やサンプルを投げつけられるような光景に出会う事もありました。

春のBA MeetingはいつもGW明けスタート。入社してGW休暇は毎日商談資料準備に追われ、休んだ事はありませんでした。その後米国駐在を経て、デル時代はGW休暇中に本社オーステインに出張。当然海外駐在中はGWなどあるはずもなく、気が付くと2017年日本に戻るまで、社会人になって40年近くGWのない生活でした。子供達には気の毒な思いをさせたと思います。

さて商談の翌週からは、progress reportと称する開発進捗レポートを毎週出すようになります。その前に商談の議事録は24時間以内提出が義務づけられていました。議事録のスピーディーな対応の重要性については、こちらのノートご参照ください。

こうして社会人2ヶ月目からOJTで鍛えられたスタートは、とても恵まれた仕事環境だったと今でもとても感謝しています。

嵐の去った後の静けさというのが当てはまるような商談会。ビジネスのイロハを質と量共に求められるプレッシャーの中で鍛えられるのは、私のその後に大きく影響しました。

1社に生涯を掲げる働き方ではなくなり、起業する若者が増えている日本。若い体力のある時、自己投資で色々なことに挑戦し、体験する事はとても大切です。出来ない理由よりもどうしたら出来るかを探す。これで良いという曖昧な甘えを戒めるハングリー精神と好奇心。そうした自立心がきっと自分の成長に大きく関わることは間違いないです。

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