語彙①自然について考える

皆さん、自然とは何かを説明することはできますか?
今日は、「日本のデザイン」という評論をベースに自然について考察していきましょう。

ある自然を思い浮かべてみましょう。その自然に対してあなたはどんな評価や感想を持ちますか?趣があると感じる人もいれば、雄大な自然だと感じる人もいるかもしれません。でも、よく考えて見てください。その評価や感想は、世界中のあらゆる人間がその自然とふれあう時にも同じように感じるものでしょうか?また、動物も人間と同じ自然の捉え方をしますか?

答えはノーですよね。
私達人間は自然をあるひとつのものの見方にあてはめて捉えていくうちにあたかもはじめから自然そのものに趣があるとか雄大さがあると感じてしまいがちです。
しかし、本来の自然とは、それを認識する主体に応じていかようにでも捉えられ方を変容しうる、柔軟で非限定的な存在なのです。

そして、認識の主体(ここでは人間とします)の属する国や地域に応じて、その認識のあり方は大きく変わっていきます。

例えば、オーストラリアに住む先住民族のアボリジニの方を日本の自然に突然放り込んだとしましょう。彼らは日本の自然をみて趣があるという感想を持つでしょうか?彼らには彼らの見方(ものさし)があって、趣を感じるという感性を持ち合わせていないかもしれません。逆に日本人がアボリジニの文化圏に放り込まれても、彼らが大切にしている様々なものごとを、正しく理解することはできないはずです。

つまり、あるひとつの自然にはある固有の価値や意味があるのではなく、それらは認識の主体それぞれによって、あるいは認識の主体が属する文化圏に応じて、変化していくのです。

「日本のデザイン」という評論において、筆者は、だから、国立公園のあり方を考え直していくことが日本の財産になると主張します。日本人は長い間経済成長や工業化・科学信仰主義やGDP至上主義の風に晒されすぎてしまいました。そのせいで、日本には資源はないと思い込み、古来から続いていた日本人特有の美意識を失ってしまったのです。

国立公園を選定するという作業は、単に日本にある豊かな自然を一部切り取り、線引きをするということではありません。

それは、その自然に対する日本人らしいものの見方や、そういった価値観を作り出した歴史的な経緯や生活体系等を、まだそれらの考え方を有していない人々に知ってもらう営みなのです。国立公園という(ものの見方、考え方としての)情報を国の財産にしてしまおうということです。

国立公園や自然というものは、確かに木々や川、様々な形で現実世界に存在していますが、それは同時に、人間の意識の中でのみ構築されていく情報のアーキテクチャー(建造物)でもあるわけです。人間の意識のルーツとしての自然を感じることが、その国の風土を味わうことというわけですね。