止まった腕時計

数年前、腕時計の電池を交換したくて通勤路にあった時計の修理屋さんを訪ねたときのことである。そこは店主であろう年配の男性が一人でやっておられる工房のような佇まいで、僕が店に入ったときも男性が何か作業をされていて「いらっしゃい」ぐらいは言われたかもしれないが然程愛想が良くないな、と感じた。僕にしてみればそれくらいの方が職人肌っぽくていい仕事をしてもらえるのでは、と勝手に期待が高まるのである。


僕は電池が切れて止まった腕時計を取り出して彼に見せた。ついでにガラスが曇るんです、とも言ってみた。修理専門店なんだからメーカーに送って何とやらという手順を踏まずとも何とか工夫して修正してもらえるのでは、との期待をもって。
時計は高級品ではないが一応国産メーカー品なのでおそらく電池交換は容易なはずである。事実、これまで何回か商店街やショッピングセンターの時計屋さんで交換してもらったことがある。だから快諾してもらえると踏んでいた。折角専門家に頼むのだからついでに他の不具合も診てもらおう、という貧乏根性が顔をのぞかせたのでガラスの曇りもお願いしてみたのである。

店主らしき男性は、ルーペで僕の腕時計を見ながら渋い顔をしていた。
「曇るのはね~、水が入ってるんだよね。てか、全く防水っていうんじゃないんだからどうやっても入ってきちゃうんだよ。つまり…」
と彼は饒舌ではないがボツボツと時計の仕組みについて説明してくれた。ハッキリ言ってよくわからなかったが、結局、完璧に水が入らないようにはできない(らしい)けど出来るところまでやってもらうことになって、電池交換と修理をお願いすることにした。

そこで僕はカバンに入れていたもう一本の腕時計を取り出した。それも電池が切れていて、バンドもダメになっている代物である。男性は横目でその時計を見て即座に「おもちゃじゃないの?」と言って一応手に取って眺めた後、「こういうのは、新しいの買った方が早いんだよ。修理とかの手間の方が高くつくから」と教えてくれた。僕はそそくさと「あ、そうですか」と引き下がって時計をかばんに収めた。

どちらの時計の話も彼とは噛み合っていない気がした。今だから流石に腹の虫は鳴りを潜めているけれど、当時は当分の間店の前を通るだけでプリプリしていたものである。一応、一週間ぐらい経って時計の修理が完了したという知らせを受けて取りに行ったが、その後しばらくしてまた電池が無くなったときに再びそのお店にお願いしようとは思わなかった。直接ケンカした訳ではないので店主は知る由もないが、僕の心がマイナスに動いていた。

総じていうと、僕の持ち込んだ2本の腕時計が彼には軽んじられているように感じられたことが一番。一本目は結婚前に妻からプレゼントされた時計だったし、二本目は息子が小学生のときに通信教育のポイントを貯めて獲得し愛用していたものを、父(僕)に譲ってくれたものである。確かにおもちゃみたいなものかもしれないが、それぞれを懐かしみながら僕の左手で再び時を刻んでほしいという願いを持っていた。だから僕にとっては市場における価値以上の重さを持った2本だったのである。

そしてもう一つ大きなポイントは、僕が過剰に期待していたことである。街中の量販店ではなく、住宅街にぽつねんとある時計修理専門店、となると、どんなタイプの時計でも、どんな故障をしていたとしても、一本一本の時計と向き合って丁寧な仕事をしてくれるんじゃないか、と勝手にイメージしてしまうのは僕の妄想族たる弱さである。勝手にイメージを作り、そのギャップにこれまた勝手に落ち込むのである。

時計の修理をもっていって、その時計の思い出話をする必要はないかもしれないが、やり取りが不足していた面は否めない。ビジネス的に言えば、修理の依頼があってそれが依頼先で可能か否か、可能だとしたら費用がいくら生じて依頼主がそれを良しとするかどうか、工期はどれほどか、だけの話なのだが、幾何かコミュニケーションがその中で行われていたとしたら気持ちのすれ違いは生じにくい。

僕たちのケアの仕事もそういう側面があるのでは、と、この話をふと思い出すことになったのである。家族に介護を要する人が居て、専門機関である僕らのところに相談ないし依頼をしに来られる。おそらく大なり小なりの期待をもって足を運ばれることであろう。自分たちでは看れないからとにかく預かってくれさえすればいい、という人もいるだろうし、介護施設に頼めば優しい人たちが(自分たち以上に)優しく接してくれるから親にとって幸せに違いない、と期待する人、あるいは専門の人たちに看てもらえばもっと元気になってくれるかも、とイメージしている人もいる。多くの場合、それらの気持ちやイメージ、期待などはハッキリと言葉になって発されることは無い。おそらくはそれぞれの家族の中での歴史や関係性がつくってきたものであり、安易に言語化できるものではないからである。しかし、心の奥には気持ちがどんと居座っている。介護を受ける本人にとっても当然そうである。

琴線に触れることのできる関係を築いていくためには、コミュニケーションを重ねていくしかない。経験値を積み上げておおよそのイメージをつくっておくことはある程度可能であるが、時間を重ねることでいい意味でも悪い意味でも裏切られることは多々ある。先ずは、わかっているような顔をして小難しい説明ばかりで時間を浪費しないようにしたい、相手に寄り添える会話や説明をしたいと願いながら空回りの日々である(反省)。

電池の切れた時計2本は、今もそのまま僕の机の引き出しの中にある。これらの修理を気持ちよく頼める時計屋さんに出会えるときまで。

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