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病院就職新卒リセマラしました

お久しぶりです。2023年は一度も投稿してなかったんじゃないでしょうか。
あれから月日は流れ、国試に受かり、祖母が亡くなり、卒業して大学院に入学し、非正規雇用で病院就職してから2ヶ月で退職しました。えっ退職……?そう退職。退職しました。
またまた間を空けてしまったので文体が安定していませんが、悪しからず。


卒業までの話

国家試験を受け、まあまあ余裕のある点数で合格し、無事大学を卒業しました。卒業式までの間に彼氏と石垣島や奈良の橿原に旅行したり、専攻の女子たちで温泉宿に泊まったりと、これまでにない解放感で素敵な休暇を満喫しました。卒業式では夏に予約してた袴を着て、級友たちや彼氏と沢山写真を撮り、とても楽しかったです。成人式の前撮りの振り袖ですごく苦しい思いをしたので、和装にはいいイメージがありませんでしたが、袴の着付け師さんはとっても上手な方で、苦しくなく、なおかつ崩れない着付けをしてくださいました。

就職

就職と言ってもパートとしての週3雇用(=非正規)でした。来年度からの就職を前提に月間?で一定時間数以上働くと社会保険が適用されるという制度を使って、殆ど正規雇用と同じような扱いで雇用してもらいました。他職種ではあるものの近い職種の同期4人にも恵まれ、彼(彼女)らとは2回ほど飲みにも行きました。

ところがどっこい。

私は実習でその病院の熱心さに惹かれたのですが、熱心さその他もろもろにやられてしまいました。

①業務に含まれるが業務に含まれない"自己研鑽"

その病院は部内で症例検討会が定例で行われていました。なんと毎週1回1時間も。人数的に、誰もが年に1度は発表者に回ってしまいます。当然症例検討会の準備は業務時間外ですし、給与や手当が出る訳もありません。しかも建設的な話し合いタイムというよりかはアラ探しからの詰めタイムといった雰囲気でした。いやー怖かった。

②みんな残業届出さないけどみんな残業

そういえば入職時に残業届の出し方を習いませんでした。誰も。職位や経験年数が上の方々も殆ど残業届を出していませんでした。しかしその病院はカルテがなんと紙(!)で、書くのにとても時間がかかる仕様でした。当然のように皆、業務時間後にやっとカルテ業務に取り掛かる有り様でした。又聞きですが、残業届を出すと「変な目で見られる」らしいです。ていうか私の場合時給制のパート雇用でタイムカード使ってるんだったらそれで給料出してくれよぉ…。なんで8時間みなし固定なんだよぉ…。
あとウルトラありえんと思ったのは、経験年数が1番下の人たちは前残業が義務付けられていたことです。もちろん残業代なしでです。

なんか思い出すと、同期が泣く寸前まで部長に怒鳴られたこととか先輩が部長の勘違いで予め申請していた時間給を取らせてもらえずに昼食抜きで泣きながら働いていたこととか、エグい話はもっと色々出そうですが、愚痴るために書いたのではなかったのでこのくらいにしておこうと思います。

退職

なんだかんだ2ヶ月は這って行っていましたが、情けなくも2ヶ月で限界が来ました。週1日は大学院の授業があり、週3日は8時頃に出勤して20時前に退勤する日々。書いてなかったですが、これらに加えて週1日だけ大学の専攻の事務としても働いていました(今もですが)。
自由な時間がとれずに、仕事に不慣れであるがゆえのストレスがかかり、有給休暇も満足にとらせてもらえない、このまま仕事仕事で精一杯の日々がいつまでも続くのか…と絶望しました。
メンタルの限界が近づいてきた頃、熱が出ました。実は私はメンタルの不調が極まると熱が出るタイプです。やっぱり限界なんだな、と改めてここで感じました。その日とその翌日は仕事を休み、ああやっぱ退職しよう、無理だ、と考えました。アルバイトで良かった、と心底思いました。
決戦の日、朝から部長に「仕事についてご相談したいことがあります、お時間いただけますか」と尋ねたら幸いすぐに取り合ってくれました。メンタルがもともと不調なこと、父の死もあって最近特に酷いこと、研究との両立がキツいこと(そんなことないけど)などを話し、退職したい旨を伝えました。すると部長からは、「過去に勤めていて今も系列の施設で働いている(実名)っていう奴も同じように家族が亡くなり病んでしまい、休職したが『天井を見つめるより働いていたほうが気が晴れる』と言っていた」「アルバイトに退職という概念はないから、無期休職という形でどうか?」「落ち着いたらコーヒーでも飲みに行こう」とかなんとか色々言われました。病んでしまった先人の実名を出された辺りでこの仕事もこの言動も無理だなという感が頂点に達してしまい、辞めることしか考えられなくなりました。
そしてなんかよくわからん「無期休職」というフェーズに突入しました。
そしてのちのち社会保険を喪失することとなり、国民保険に切り替えたことで繋がりが消え、ようやっと無事に自由の身となったのであります。

特大モラトリアム期間

退職してからは本当に自由の身でした。週2回くらい彼氏と会って遊び、色んなところへ旅行に行きました。大学での専攻の事務は非常に高給だったので、週1回の勤務でも余裕で遊べました。
学部生の頃はギチギチの必修授業やコロナや実習やらで、遊ぶのにあまり沢山の時間は取れていなかっったので、それはそれは謳歌しました。
しかし遊び散らかす一方で、どこか後ろめたさもありました。大学の先生に病院を紹介してもらって、先方からもいい条件で雇ってもらったのにすぐに辞めてしまったこと、同じ専攻を卒業した同期たち、病院の同期たちは立派に働いているのに自分はキャリアを途中で絶ってのうのうと生きていること、などなど、考え出すとかなり辛いものがありました。
通っていた精神科でも沢山そんな話をしました。

余談ですが精神科通院のために利用していた「自立支援医療制度」が保険切り替えに伴って申請し直しになったのはめちゃくちゃ面倒くさかったです。

改めまして就職活動

特大モラトリアムも楽しみつつ、大学院卒業後の就職ビジョンも一応考えてはいました。正直理想を話すともう一生働きたくないし、働くのはコリゴリだぜ〜って状態でしたが、このまま子供部屋おばさんで居続けるのもプライドが許しませんでした。
そこで、前回の長く続かなかった就職体験を踏まえ、全く性質の違う病院に就職することを目指しました。私が重要視したのは以下の点でした。

  • 身体科ではなく精神科であること

  • 基本残業をしないスタンスの病院であること

  • 勉強熱心なスタンスではないこと

  • 給料よりも長く働けそうかを重視すること

でした。
身体科ではなく精神科を目指したのは、身体科の仕事が難しかったのもありますが、身体科の職員は体育会系が多い印象だったからです。自分も陸上競技歴約8年のバリバリ体育会系ですが、いわゆる熱血な、体育会系とは馬が合いません。そこで、比較的人が穏やかな、働きやすそうな精神科を目指しました。
自分自身も精神科に通う人間ですが、実習の経験を踏まえて考えてみれば、私の場合、他人との間にきちんとボーダーが引けるタイプだと思えたので、大きな懸念はありませんでした(プライベートはさておき)。
2回目の就職をするにあたって、私の立場での就職は弱みより強みが大きいことに気づけました。

  • どんな職場が合わないかわかっていて、職場選びの観点が実感を伴って定まっていること

  • 周囲に有資格者が多いため、他の病院の情報を沢山もらえること

  • 学部のみならず大学院をふくむ有資格者の豊かな人脈があること

  • 既に免許を取得している(有資格者である)ので病院側としては「確定枠」を確保できること(卒業見込み学部生より優位)

  • 大学院修了予定なので、取得予定の学位が高い

そんなこともあってか無事に良さげな精神科病院に就職することができました。
この先入職後にどうなるかはわかりませんが、また粘ってみたいと思います。それまではもう少し残りの限られたモラトリアムを楽しもうと思います。

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