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現代短歌詳らか/あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の(千種創一)


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あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の

千種創一『砂丘律』

はじめてこの歌を読んだとき、いや今でも、結句末の「海の」という言葉に惹かれてやまない。モノクロの世界に色がついたような衝撃。それは定型で読むことを許さないような「、」の配置とともに、筆者の記憶に深く刻まれている。

まずは短歌らしく定型で読んでみよう。音数を数えると、「、」を一音としなければ二九音、一音とすれば三二音となる。短歌は字余りより字足らずをきらうから、「、」を一音に数えるとすると、句切れは

あっ、ビデ - オになってた、/って君の/声の短い/動画だ、海の

このようになる(句切れを「/」、句切れが句またがりで繋がっている場合は「 - 」で示した)。うん、たしかに定型にあてはめることができる。でもこれでいいんだろうか。

あっ、/ビデオになってた、/って君の声の短い動画だ、/海の

おそらく初読では、読者は自身の定型感覚とのズレを感じながらもこのように分けて読むだろう。「、」をそのまま句切れと考えるわけだ。

定型の問題は一旦おいて、注目したいのは「。」で示されるべき部分も「、」になっている点だ。

【改】あっ、ビデオになってた。って君の声の短い動画だ、海の。

本来はこうだろう。特に重要なのは、「ビデオになってた。って」の「。」が原歌では「、」になっているところだ。「。」であれば前半の「君」の発話と後半の作中主体(以下〈僕〉と呼ぶ)の語りを区別することができる。区別しないことによる効果は何だろうか。二つ挙げておきたい。

①歌のなかに切れをつくらないことで、結句までをひとつづきに読ませることができる。
②「君」と〈僕〉の距離感をやわらげることができる。

歌のなかには「。」で示されるべき切れがある。にもかかわらず、それを「、」でなくしている。読者は区別されるべき異質な内容――「君」の発話と〈僕〉の語り――をひとつづきに感じとることになる(①)。

また、「、」は画面越しの「君」と画面を見ている〈僕〉の距離感をやわらげている(②)。二人のあいだには大きな距離があるはずなのに、まるで同じながれにいるような感覚におちいってしまう。

この二つの効果があるからこそ、最後の「海の」が生きてくる。「海の」は〈僕〉の「海の」「動画だ」という認識であると同時に、「君」が動画の中で実際に「海」にいることを示しているのである。「あっ、ビデオになってた」は画面の向こう側の発話であり、「って君の声の短い動画だ」はこちら側の認識だ。「海の」は〈僕〉の認識を変えると同時に、今まで声しか聞こえなかった「君」の居場所を示し、姿を暗示するのである。まるで「君」の服装まで見えてくるようだ。

歌の頭から読みを整理してみよう。読者はまず「あっ、」という感動詞によって発話者の声を聞く。「ビデオになってた、」で、ここまでの発話が不意に入ってしまった動画の録音であることを認識するだろう。その認識は「って君の声の短い動画だ、」によって裏付けられるとともに、発話者が「君」と呼ばれることで〈僕〉と「君」の親密な関係を想像させる。しかし、そのような関係が想像されながらも、二人の世界は画面を介して決定的に隔たっている。そこに「海の」が来る。

この歌は大きく分けて二つの解釈ができる。「君」と〈僕〉の親愛を示すという解釈と別離を示すという解釈だ。一つ目の解釈は「、」で結ばれていることから導けるし、二つ目の解釈は「、」で結ばれているにもかかわらず画面を介して決定的に隔たっている点から導くことができる。

以下、筆者は二つ目の立場をとる。

「海」とはどのような場所だろうか。この歌では「海」だけが景物である。また、「海」は多彩な想像を喚起する言葉である。〈僕〉が画面越しの「君」を見ているだけの出来事は、この一語を介して物語へと接続される。その「海」は二人で走りまわった砂浜かもしれないし、突堤から眺めた果てしない海かもしれないし、ホエールウォッチングやダイビングで見た海かもしれない。

そうした様々な思い出を喚起しながらも、歌に示されるのは「海」という一語だけだ。海は地平線を超えてつづき、果てしなくひろがり、人為を超えて太古から存在しつづけている。それは「、」によってつながれていた二人の関係が、画面という隔たりを出発点として、果てしなさのなかに解き放たれてしまうようだ。筆者はここに別離をみる。

ここで定型感覚の問題にもどろう。この歌は定型っぽく読むべきだろうか。それとも破調歌として読むべきだろうか。先に示さなかったが、句切れを「、」で示すことの効果はもうひとつある。

③「君」の発話と〈僕〉の語りが質的に近いものとなる。

言い換えよう。「君」の「あっ、ビデオになってた、」という発話も、僕の「って君の声の短い動画だ、海の」という語りも、同じつぶやきとして均されているのだ。さすがに均質とは言えないが、発話と語りという別は薄まっている。それは文体のおかげでもあるだろうし、発話が「  」で囲まれていないためでもあるだろう。

こうして歌が発話らしく、口語らしくなるとき、歌は流れるような読みを要求する。特にこの歌では口語らしい流れを切ってまで定型を当てはめるメリットがない。この歌は当初の読みどおり破調の歌として読まれるべきだ。

あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の

活かす

発話とは、ある瞬間に、得てして二人の間で交わされるものだ。それは常に物語の萌芽を含んでいるが、具体的なストーリーを想像させるのは難しい。

「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの

俵万智『サラダ記念日』

発話+口語体の語り、歌の構造はとても似ている。そしてどちらも濃厚な物語を想起させる。一瞬の発話のまわりには若干の時間の流れがあり、その背後には二人の物語が用意されている。これは発話を具体化する歌であり、言い換えれば物語の瞬間を発話によって切り取る歌である。

作中主体の語りのなかで、俵万智であれば「カンチューハイ」というから景、場面、物語が浮かんでくるし、千種創一の場合は「海」というから場面、物語が浮かんでくる(もっとも、千種創一の歌は画面越しという特殊な状況下ではあるが)。これは技巧だろう。

会話はを前提とする。ある一語があれば、そのを具体化することができる。その語は発話のなかにあっても語りのなかにあってもいいが、あるかないかでは大きな違いが生まれる。

発話という出来事から出発し、ある言葉によって発話の場を設定し、種々の言葉によって物語をにじませる。あるいは、物語の断片としての場面……発話を提示する。現代短歌の手法をこのように示すことができる。

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