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映画脚本家・向井康介、初の長編小説『猫は笑ってくれない』第1章全文

18年9月7日、ポプラ社より刊行になる向井康介さん初の長編小説『猫は笑ってくれない』。全6章のうちの第1章を全文無料掲載いたします。脚本家の主人公・早川と、かつての恋人である映画監督の漣子。二人が一緒に暮らしていた猫が病気になり、再会する元恋人同士の物語です。

◆著者略歴   向井康介(むかい・こうすけ)脚本家。1977年徳島県生まれ。大阪芸術大学卒業。脚本を手掛けた作品に、「リンダリンダリンダ」「マイ・バック・ページ」「ふがいない僕は空を見た」「もらとりあむタマ子」「陽だまりの彼女」「ピース オブ ケイク」「聖の青春」など多数。本作が初の長編小説の執筆となる。


****冒頭第1章****13832文字、単行本29ページぶん****


 外に出ると辺りが急に白いので驚いた。東京では珍しいかなりの大粒だったようで、アスファルトの地面はもとより、屋根のない駐輪場に並ぶ自転車のサドルや一階のベランダの室外機、向かいの家の花壇、それから電線の上にまでこんもりと白い山ができている。昨夜はただの湿っぽい晩だったのに、雪には音がないから気がつかなかったのだ。
 慌てて部屋に戻り、持っている中で一番底の厚いスニーカーに履き替えたが、それも無駄な努力で、車の作った轍を選んで歩いてみても、踵から爪先から踝から、雪はどこにでもまとわりついて体温ですぐに溶けてゆく。五分も歩けば足取りは倍も重くなって指が悴んだ。そうなるともういっそ諦めがついて、わざと誰の跡もない、道の脇の雪深いところをざくざくかきわけて行ったりする。足裏の、しゃくっとした軽い雪が、踏みしめるにつれてどんどん硬くなり、最後は地面に張りついて道の一部になる感触は面白い。そんな遊びで寒さをごまかしながら、昨夜の漣子からの電話を思い出していた。
 なんということもないのだけど、でもやっぱり知らせておかなくちゃと思って、と形のない前置きをしてから、漣子は気持ちの見えない声で、
「ソンちゃんがどうも駄目らしいんだよね」
 と言った。
「病気?」
「腎不全。結構前から頑張ってたんだけど、できることはほぼやりつくしたって病院でも言われて」
「……早かったな。思ったより」
「いや、やっぱりもういい年だったんだよ」
 漣子の半ば受け入れたような、あるいは自棄とも取れるような口調は、どこかで自身を責めているようにも聞こえた。
「それで、あなたも会いたいのじゃないかと思って」
「……うん」
「一応は二人で育てたのだし」
 地下鉄で新宿まで出ると京王線に乗り換えた。濡れた靴が生温く不快で、東松原に着いてまた雪道に足を浸し、冷たさにまみれたときはむしろ心地いい気すらした。駅前で一旦携帯電話を取り出して、昨夜漣子が口頭で教えてくれた住所を打ち込む。画面に現れた地図を横にしたり逆さにしたりしながら方向の見当をつけた。世田谷区は迷路だ。いつも迷ってしまう。
 ソンの寿命がまもなくだと聞かされて、まず何よりも漣子のことが気にかかった。長く連れ添ったぶん、彼女の方がきっと思い入れが強い。やがて来るソンの死は間違いのないひとつの悲しみではあったけれど、その喪失に耐えねばならない漣子の心痛を思うと、気持ちが暗くなってくる。
 締まりの悪い蛇口から漏れる水滴みたいにそこかしこの軒先から積雪が崩れ落ちる細い道を行きつ戻りつするうちに、だまし絵のような抜け道を見つけて踏み入ると、ついにそれらしきマンションが見えてきた。全面赤いタイル張りは辺りにうちしかないからすぐにわかるはずよという漣子の言葉通りで、それも雪景色の中だから余計に目立っていた。
 ようやく発見した思いに安堵しながらエントランスを潜ったが、並んだ郵便受けの中に漣子の苗字を見つけたときには思わず立ちすくんでしまった。隣には連名で「宮田」とある。文化欄を担当する新聞記者と二年ほど前に籍を入れたという話は業界の噂で聞いていた。急に、自分がとてつもなく恥ずかしいことをしているような気がして、気持ちが外へ向く。やっぱりこのまま引き返そう。そう思うのに、身体は共用インターホンの前に向かい、指が七〇二号室のボタンを押している。
 来客を告げる電子音が鳴り、間を置いて小さなスピーカーから、はい、という懐かしい女の声が聞こえた。あ、俺です、早川です、と答えると、また、はいはい、と声がして、隣の自動ドアが開く。あ、開きました、と返事をして俺は奥へと進んだ。あ、開きました、なんて、なんでそんな間抜けな返事をしてしまったんだろうと、エレベーターの中で悔やむ。それだけ緊張していた。
 七階でドアが開くと、雪に覆われた住宅地が眼前に広がっていた。陸を歩いているとわからなかったが、この辺りは丘のてっぺんなのだ。地上から吹き上がってくる鋭い寒風が鼻腔につんと突き刺さるのを心地よく思いながら、俺はしばらくその非日常な白い光景に目を奪われていた。
 外廊下を突き進んだ、奥から二番目のドアが漣子の部屋だった。今一度表札を確認して、インターホンを鳴らす。待ち受けていたようで、ドアはすぐに開いた。中から、鼻筋のすっと尖った、丸い顔をした一人の女が当然のように姿を現した。
 五年ぶりに会う漣子はまるで変わっていなかった。実際には二人とも時間のぶんだけちゃんと齢を重ねているのだろうが、雑誌やネットの記事なんかでインタビューを受けている姿を折に触れて目にしていたので、小さな変化がわからなくなっているのかもしれない。それはそれで妙な感慨にふける必要がないのでありがたかった。ところが漣子はそうではなかったようで、玄関のドアを開けたきり、ノブを掴んだままで上から下までの俺をしげしげと眺め、ちょっと太ったんじゃない、と言った。こっちは彼女と違って表立って世間に顔が出るような存在でもないので、五年という時間の重さにしっかりと気づいたのだろう。長靴の嫌いな俺がきっと足元を濡らしてくると読んで、前もって用意していたらしいタオルを差し出し、すぐに乾かすから、と靴下まで脱ぐように言ってスリッパを並べる姿は自然な美しさで、一緒に暮らしていたころの空気を一遍に思い出してしまう。こんな怜悧な人がどうして俺のような酒飲みと六年間も一緒にいてくれたんだろう。早く脱いでと急かす漣子に、どうせ乾かしても帰り道でまた濡れるんだからと断って、俺は濡れそぼった靴下を丸めてスニーカーの中に押し込んだ。そのとき、側に男物の革靴が置かれているのが視界に入った。
「旦那さんは? 仕事?」
「今日、日曜でしょ。ちょっと買い物に出てる」
 漣子はうながすように短い廊下を先に歩く。俺が来ることを知っているのか聞こうとしたが、変な空気になるとどうしていいかわからないから、やめた。
 リビングは二人で住むにはちょうどいい広さで、置くべきところに置かれるべき家具がきちんと置かれている、そんな正しさがあった。かつて一緒に使っていた見慣れた古い戸棚もあれば、買ったばかりらしいテーブルも見え、それらが程よく調和している。
 初めての空間で身の置き所が定まらず立ち惚けていると、五十インチはあるテレビと向かいあうように鎮座する黒いソファの上に、ぱっと目が留まった。そこに懐かしい生き物がいた。自分の?の緩むのがわかる。ダイニングキッチンでお茶の用意をしていた漣子に許しをもらって、俺は驚かさないようにゆっくりとソファに近づいた。
 ソンは四肢を横に投げ出してコの字形で眠っていた。ベランダが覗ける大きな窓からの薄い陽に、黄金色の毛がつやつやと照っている。少し痩せたのかもしれない。深く眠りに入り込んでいるようで、無防備にさらけ出した背中がゆったりと波打っていた。俺は昔していたように、鼻先を、そこだけ白く、もっとも柔らかいソンの腹に持っていった。しっとりした毛並みの中に顔じゅうを埋めると、日光に温められた埃っぽい匂いが身体に飛び込んでくる。あのころ、目覚めるとソンはいつも枕元にいて、俺は毎日この匂いに包まれていたのだ。そしてその向こうには化粧っ気のない漣子の寝顔があり、自分とは違う人間の香りがしていた。
 ぐるぐる、と喉が震える音が聞こえる。顔を上げると、ソンの目が薄く開いていた。ごめんな、ソン、起こしちゃったね、と聞くと、ソンは長い舌で口の周りをぐるんと舐めてから、一言、ふな、と鳴いた。涙が感情を追い抜いて迫ってきた。
「大丈夫?」
 俺の醜態を漣子が笑う。
「ごめん。俺に泣く資格なんかないのに」
「何格好つけてんのよ」
「駄目なんだ俺、こういうのにもうどんどん弱くなっちゃって……。だって、漣子の方が辛いだろ、やっぱり」
 去年の夏、急にソンの足元がふらつき始めたのだという。例年に比べて厳しい暑さで、夏バテだろうと思っていたら、ある朝ふいに食べたものを吐いた。毛玉ならいつものことだが、どことなく少しやつれたような気がする。そういえば最近食も細い。そのくせ水ばかり飲んでいる。それも夏のせいだと思いたかった。インターネットで症状を照らし合わせてみたら腎不全にぶつかり、恐る恐る病院に連れて行ってみると、やはりその通りだと診断された。観念。それから食事療法と、皮下輸液と投薬のための、週に何度かの通院が始まったのだと、漣子は緑茶を淹れながら俺に説明してくれた。
「いったんは数値も落ち着いたり食欲も戻ったりしたんだけど、また調子悪くなったりの繰り返しで、先週かな、病院に行ったら、どうも先行きは暗いみたいだって先生に言われて……。それであなたにも知らせないと、と思って」
 ソンに寄り添う俺の前に湯呑みを置いた漣子は、テーブルの脇の椅子に腰掛けて自分の緑茶を大事そうにゆっくりと啜った。
「だから悲しむ暇なんてなかったのよ」
「……そうか」
 としか俺には言えなかった。何が漣子の心痛を慮るだ、と自分が情けない。
 俺の手を舐めていたソンがゆっくりと立ち上がって、ぐっと天井に背中を突き上げた。弾みで一緒に持ち上がった長い尻尾がぷるぷる震える。伸びが終わると眠そうな目で俺を見上げて、また、な、と鳴く。それから俺の太ももに身体を擦りつけながら音もなくソファを下りると、のろのろと漣子に近寄り、同じように身をすり寄せてからガスストーブの前にちょこんと座って、目を閉じた。温泉に浸かって温もりに耽る老人みたいだ。ソンは昔から炬燵よりこいつが好きで、近づきすぎてはよく毛を燃やした。
「今でもまだ焦がすの?」
「そうね。毎年一回は焦がすね」
 そのガスストーブはかつて俺と一緒に暮らしていたときのもので、買って間もないころ、何にも知らないソンは俺たちの目の前で、何を思ったか陽炎が見えるほど熱せられたやかん置きの上に、ひょい、と上ったことがある。俺たちがあっと声を上げる間もなく、足が着くや否やソンはそれまでに見たことがないような跳躍でもって慌ててテレビの裏に隠れて、吐いた。その走り逃げる姿が滑稽で、俺たちは心配するよりもまず大笑いしてしまった。肉球は数日真っ赤に腫れ上がり、そのうち皮がめくれて、前より硬くなった。以来、やかん置きには二度と上らないようになったが、頭がおかしいのか、それとも好奇心が旺盛なのか、ただ無邪気なだけなのか、ソンの考えていることは本当にわからない。
 ストーブの前でくつろぐソンの横顔にそんな小さな記憶を見ていると、玄関でドアの開く音がした。無意識に腰が浮いた俺を見て、漣子がちょっと面白そうな顔をする。
 ばかに細長い男が買い物袋を下げて入ってきた。漣子が、早川くん、と男に俺を紹介する。男は百九十センチはあるのじゃなかろうかという長身で、面長の輪郭にこれも細長い鷲鼻と、濃い二重の下の垂れた目を眠そうに、唯一、そこだけ小さい口元でぼそっと、宮田義則です、と恥ずかしそうに呟いて手を差し出した。俺の方もなんと言っていいのかわからず、早川です、と頭を下げた。握ったその手の指も長かった。
 そのときになって、急にまた羞恥心が襲ってきた。漣子からの電話を受けて無邪気にやってきたはいいが、その後の展開をまったく考えていなかったのだ。ソンの見舞いを終えた今、俺がここにいる理由は何もない。俺は残った緑茶を飲み干して、わざとらしく腕時計を眺めた。
 ところが二人は不気味なほどの自然さで買い物袋の中の食材を取り出すと、何も言わずにキッチンに立った。包丁を手に白菜やらしいたけやら鶏肉やらをざくざく切り分けてゆく漣子の周りを、身長に似合わぬ器用さで宮田さんがひらひらと動き回り食器を取り出す。ラーメン屋の夫婦みたいに息の合った二人の背中を眺めるうちに、気がつくとテーブルの上には水炊きの支度が出来上がっていた。鍋を囲むことは、きっと彼らの間で決まっていたのだ。
 あなた、もちろんビールよね、と漣子が俺のグラスに缶ビールを注いだ。元来漣子は酒が飲めなかった。今度は俺が宮田さんに注ごうとすると、僕も飲めないんです、と断られた。ということは、このビールは俺のためだけに買ってきたものなのだ。
「あいかわらず毎日飲んでるの?」
「そんなことない。年に四回くらい抜いてる」
 ふふん、と漣子は苦笑する。宮田さんは口を軽くすぼめて俺を見た。俺は悪者になった気分で苦いだけの液体を喉に流し込んだ。
 妻となった女の昔の男と一緒に鍋をつつくというのはどんな気持ちだろう。想像するだに嫌だし、俺ならきっと早く帰ってほしいだろうなと思うのに、宮田さんはそんな素振りも見せず、飄々と箸を動かし、俺が前に手がけた時代劇の脚本の話に楽しげに耳を傾ける。
「ああいったものは、やっぱり時代考証みたいなことはきちんと調べるんでしょうね」
「ええ。視聴者のクレームとかありますから。NHKには考証専門の方がいるんです。大河から何から、局で扱う時代物は全部その人が請け負ってるっていう」
「たった一人で?」
「別に大学の教授なんかが入ることももちろんありますけど、それでも目を通さないことはないそうです。だから、その人がいなくなったら結構大変なことになると思いますよ」
「結構細かいの? 考証は」
 給水器の足元で、粉末状の薬を混ぜた餌をソンに食べさせていた漣子が質問を継いだ。
「細かいよ。でもそれは必要なことだからいいんだけど、ちょっと口が悪いんだよ、とにかく。この程度の知識でよく時代劇を書こうなんて無謀なことを思いましたね、とか、上がってきた考証の片隅に書いてたりするんだから」
「やるなあ」と漣子の目が輝く。
「頭来てさ、一回会わせてくれ、話させてくれってプロデューサーづてに頼んだら、会ったらきっと殴られるから絶対に嫌だって、出てこないんだよ」
「いい人じゃない」
 と漣子はげらげら笑ったが、宮田さんは、いやぁ、ひどいよそれは、と顔をしかめている。あまりの真に受けように、まあ、間違った考証のまま放送されたら脚本家の恥なのでやはり頼りにしているんですけどね、と弁解しながら、こんな廉直な人と果たして漣子はうまくやっているのだろうかと変な心配をしてしまう。
「それで、今はどんなものを書かれているんですか?」
 宮田さんはあらためて俺に向き直った。とっさに言葉が出ないでいると、漣子が見かねたように、
「映画?」
「まあ、うん。そんなところ」
「映画はとにかく時間かかるからね」
 ははぁ、と宮田さんが頷く。俺は自分が情けなかった。漣子が助け船を出してくれたということは、俺の今の窮状を知っているに違いないのだ。
「俺も監督だったらな。実入りのいいCMとかやるんだけど」
「やっぱりそんなにいいんですか? CMって」
「だって弁当からして違うんでしょ?」
 と俺は宮田さんの質問を漣子に差し出した。漣子はちょっと得意げに、
「今半だからね」
「今半ってあのすき焼きの? あそこって弁当あるんだ?」
 宮田さんが別のところで驚く。
「あるんですよ。それにしてもなんで広告業界ってあんな金あんだろ」
「だけどわたしもCMの仕事なんて最近全然こないよ。ソンの病院代もあるし、年に一回くらいあればありがたいのだけど」
「今は何?」
「ドラマの話が来てるけど、断ろうと思ってる。ロケハンだなんだって家空けなきゃなんないし、ソンを一人にしておけないからね」
「僕がいるよ」
 と宮田さんが言った。
「だけどほら、昼間は仕事でいないわけだし」
 と漣子が答えた。
 話題が自分に移ったことに気づいたのか、ソンが餌から顔を上げて俺たちを振り返った。丁寧に歯を舐めながら三人の顔を順番に眺め、見比べたあと、宮田さんの足元に綺麗につま先を揃えてちょこんと座って、じっと顔を見上げる。膝の上に乗りたいが、跳び上がる脚力がないのだ。それを悟ったらしい宮田さんがソンの身体を両手ですくい上げた。ソンは膝の上で、前足を胸に添えながら、主人の口元を舐めた。
 そのとき、
「俺が見るよ」
 という言葉が、自然に俺の口をついて出た。漣子と宮田さんが、虚をつかれたような顔をして俺を眺める。俺が見るよ、と俺はもう一度言った。決して嫉妬から出た言葉ではなかった。けれど、嫉妬でなければ何だと問われたら、何も答えられないかもしれなかった。
 ソンが、どうでもいいようなあくびをした。

 納得がいかない、と摩理は堅く言い放った。
「どうしてあんたがそんな猫の面倒を見なければならないのよ」
「だからさ、そもそもは俺が拾ったからだって言ってるじゃない」
「あんたの友達が拾ったって前は言ってた」
「だからそれも言ったけど、俺の知り合いが拾って、それで俺に飼いませんかって言ってきたんだから、俺が拾ったってことになるだろう」
「だけど結局あっちが引き取ったんでしょう」
「そうだよ」
「なら、今のあんたにはもう何の関係もないわけじゃない」
「だから、そもそもは俺が拾った猫だってことに向こうが気を使ってくれて連絡をくれたんだから、それを無視するのも失礼な話だろってずっと言ってんじゃん」
 店に入る前も、入ってからも、ずっとその繰り返しだった。まだ昨夜の酔客の吐息の残る、開けたばかりのバーカウンターの向こうで、興奮して音楽をかけるのも忘れた摩理は、わざときんきん音を立てて氷を砕き、派手な水しぶきを上げながら昨夜のグラスを洗っている。俺は困憊してただただビールを飲んでいた。
「大体向こうはなんて言ってるのよ」
「三木田さん? いいよって」
「違う。旦那の方」
「ああ、うん、三木田さんがいいなら、じゃあ、そうしましょうかって」
「そんなの痩せ我慢に決まってる。じゃなかったら頭がおかしいのよ」
 一緒にソンの面倒を見させてほしいと言ったときの、大人しやかな宮田さんの表情が思い浮かんだ。漣子の夫は俺が家を辞すまでずっとその表情を崩さなかった。それは本心を隠しているようにも見えたし、ただ無防備なだけのようにも取れた。
「猫を飼ったことがないお前にはわからないよ」
「わかるわよ。猫をダシに三木田さんに会いたいってことぐらい」
 四十にも近くなって、たかが猫ごときでカリカリと罵りあうのも卑しいことだ。自分のことしか考えない諦めの早い俺も悪いとはいえ、理性を縛る紐が緩んだ上に、噓がつけなくなってしまった摩理にも困ってしまう。どうしてこうなってしまったのか、そもそもは出会い方がよくなかったのだろう。漣子と別れて間もなく、久しぶりの一人暮らしに戸惑っていたところで摩理とぶつかったのだ。向こうも一年続いた男に浮気されて、別れようか別れるまいかグズグズしていて、お互い薄寂しい気鬱な心をごまかしてみるかと一晩遊び、それが二晩、三晩と続いた。惰性というのも薄気味悪いもので、くっついたり離れたりしながら気がついてみると二年が経ち、できた思い出をもったいなさそうに、どうやらこれは本物じゃないかと笑ってみたり、やっぱり勘違いだと泣いてみたり、拾った原石をただの小石と思いたくなくて代わる代わる磨いては、なんでもいいからともかく何かの宝石であってくれと、虚しいが切実な努力をどこまでも続けて今日が来ている。
 摩理に漣子とのことが理解できるわけがないし、理解してほしいとも思わない。むしろ理解なんてしてほしくない。そんなことをされたら、摩理との仲も、終わってしまう。ここに飲みに来るのだって、俺の打算が働いているのを、摩理はとっくに見破っているのだし。
 映画を主戦場としていた俺に、民放のドラマ班が声をかけてきたのは四年前のことだ。田野というちょうど一回り年上のプロデューサーは自主映画時代から俺の作品を観続けていると言って、昨今のドラマ批判を始めた。元来テレビドラマを観ない俺には話の十分の一も入ってこなかったが、ともかく現状を打破するような新しいドラマを作りたいのだということだけはよくわかった。
「だけど俺、ドラマの世界って本当によく知らないんですよ」
「知らないからいいんです。これまでのドラマをまったく知らないからこそ出てくる早川さんの発想でもって、新しい風を吹かせてほしいんですよ」
 それはどんなプロデューサーものたまうありきたりな口説き文句にすぎなかったが、俺は心が揺れた。二時間という制限の中でしかものを書いてこなかった自分にとって、連続ドラマは確かに魅力的だった。そこでしか描けないものがあるはずだった。
 田野が持ってきた企画は、かつては人気を誇り、先代が亡くなったことがきっかけで今は廃業寸前に追い込まれた老舗洋食屋を、若い女シェフが一流に蘇らせるというものだった。これのどこに新しい風が詰まっているのか、陳腐極まりない代物だったが、ともかく女性に受けないと話にならないんです、という田野に頭を下げられて、俺は渋々机に向かった。問題はそこからだった。
 二話まで書き上げたところで、主演女優の事務所から内容について待ったがかかった。クレームは企画を根底から覆すような内容で、到底受け入れられず、俺は即座に突っぱねた。しかし、当然俺を守ってくれると信じていた田野は、あろうことか主演女優の方についた。民放の社員プロデューサーは女優側の言い分も確かに一理あると何度も頷くが、事務所と揉めたくない保身が見え見えだった。ここで拗れると、将来の企画にも響いてくるからだ。この時点で降りればよかったのだが、泣く泣く説得され、俺は書き続けた。田野が古くからの俺の映画の理解者であったことが俺を前向きにさせ、それが悪い方向に働いた。
 女優とその事務所からの改訂はそれからもずっと続くことになった。のみならず、いざ撮影が始まると、スポンサー、編成、ディレクターたちからも毎日のようにダメ出しが入る。それらをうまく捌いて一本に通すのも俺たちの力の見せどころではあったが、それにしても味方が少なすぎた。知らないということが武器だったはずが、実際には知らないことが仇となった。
 執筆は遅れに遅れ、まだ中盤の折り返しにも満たない状態で放送が始まった。翌日発表された視聴率は同時間帯の中で最低だった。フィギュアスケートとぶつかったんでしょうがないですよ、次からは上がると思いますから。そんな田野の慰めも虚しく、翌週はさらに下がる。視聴率なんて、と放送前は強がっていたが、こうして結果が出てみると想像以上に応えるものだ。しかも執筆はまだ終わっていない。負け戦とわかっていながらそれでも書き続けなければならない苦痛。最後にはもう自分をなくしていた。ただの脈打つタイプライターにすぎなかった。
 撮影が終わってすぐの打ち上げで、主演女優と顔を合わせた。美貌だけで生きてきた平凡な女は何もなかったような顔をして、おつかれさまでした、と俺に微笑みかけてくる。ここまできてさらに責苦に遭わなければならないのかと俺は自分を呪った。
 後日、田野に慰労会と称して鮨屋に呼び出され、二人でカウンターに並んだ。この、父親も同じ放送局の重役だったらしい中年男は、今回のドラマに関わった俺以外の人間をとにかく悪し様に罵倒してみせた。俺に対するポーズだとわかりながら、見境なく酔ってゆく田野を黙って見ていた。
 二軒目を出た別れ際、田野はあらためて俺に頭を下げた。
「早川さんにはいろいろと苦しい思いをさせてしまって……。すべては早川さんを選んだ僕に責任があります。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
 田野は言葉通りの意味で言ったに違いないのだろうが、その言葉を俺がどう受け止めるのかということにはまったく気づいていなかった。この男と仕事をすることは二度とないだろう。俺はそう思いながら、それでも笑顔を崩さなかった。
 ちょうどそのころからだったかもしれない、物語を信じることができなくなったのは。
 仕事になってしまったとはいえ、まだ映画に対する純粋な希求は失わず、シネコンから名画座から足繁く通っていたのが、今では近くを通りかかっても素通りしてしまう。人物造形や作劇の素材集めのために毎日のように買い込んでいた書籍も気持ちがいいほど読む気になれず、仕事中にかけていた音楽が耳障りで、すぐに消してしまった。人が撮った創作物の何を観ても絵空事に思え、人が著したどんな活字に目を落としても心臓の鼓動が速まることがない。自分の書くものなど尚更で、どんな台詞もまるで無機質で味がなく、読み返しても果たして本当に自分が書いたものなのか首を傾げてしまうほどだ。当然そんな状態で出来上がった代物など誰も認めてくれるはずはない。批評の上でも数字の上でも、評価は底辺をさまよい続けた。
 助けてくれたのはアルコールだけだった。自分を無くしたいならアンフェタミンでもTHCでも何でもよかったのだが、面倒くさがりな俺には、やっぱりすぐにどこででも手に入る酒が一番手っ取り早かった。翌朝猛烈な頭痛と吐き気と共に目が覚めるのも自分にふさわしい。アルコールは罪で、二日酔いは罰。摩理がバーの雇われ店主をやっているのも幸いした。夜は記憶のない日が続いた。
 テレビドラマが合わなかっただけだと淡い希望を抱いて映画に戻ってきたが、やはり実感は戻ってこなかった。むしろ日を追うごとに空洞は俺の胸の中に広がるばかり。行くところに行けば、心の状態に何かしらの名前がつくにちがいなかった。それを認めたくなくて、俺は頑なに一人であり続けた。
 見兼ねた旧知のプロデューサーが、この路頭に迷った脚本家を可哀想に思い、負担の少ない小さな仕事を振ってくれた。大里という、俺を脚本家として立たせてくれた恩人で、断るのは不行儀だという一心で引き受けたが、すでに気力は潰えていた。虚構を生業としてきた自分が、虚構の無意味に気づくこと。それは生きる価値の否定だった。俺は一文字も書けないまま姿をくらました。最後に覚えているのは、数十件も並んだ大里の着信履歴だけだ。
 蓄えることを知らなかった人間が稼ぎ方も忘れてしまうと、寄りかかるものは同類しかいない。それが男の場合は、やっぱり女だったりする。摩理は最初、主人公にでもなったつもりでかいがいしく俺を労ってくれた。甘えられるだけ甘えようとバーに通いつめるうちに、自分に会いに来たのではなく、ただで酒を飲ませてもらうのが目的なのだというこちらの魂胆に気づいて、女は途端に冷淡になった。そんな矢先に漣子との再会。摩理にとっては火に油を注がれた気分なのは、鈍感な俺にも簡単に理解できた。

 摩理がどう反抗しようと、ソンを看病したいという俺の気持ちは揺るがなかった。以前より心持ち頰の痩けた、麦色の小さな動物の向こうにうっすらと滲む記憶。その輪郭を辿り、一体どんな形だったのかを確かめたかった。傍目にそれが未練と映っても気にしない。俺はただ、失ったものの大きさを測りたかったのだ。
 もし、自分が処女作を撮る前にあなたの映画を観ていたら、わたしは映画を作ることを諦めていたかもしれない。初めて会ったとき、三木田漣子は俺にそう言った。壮年の映画評論家に伴われて、俺の書いた新作の試写にやってきたのだった。長い睫毛の奥の丸い瞳にじっと見つめられて、いや、監督の演出にすくわれたんですよ、と俺はただうつむくばかりだった。
 数日後、漣子から、今度は彼女の新作のチケットが送られてきた。観に行くと偶然トークイベントの重なった日で、上映後、彼女はスクリーンの前に姿を現した。下手な司会を前に自分で話を進めていく様は凜として頼もしく、俺は何故だか隠れるようにして眺めていた。目が合うのを恐れていたのかもしれない。イベントのあと、ファンに囲まれサインを求められている彼女の横を、俺は黙って通り過ぎた。
 翌日、メールで感想を送ると、食事の誘いが来た。待ち合わせて一緒に入った居酒屋で、彼女は数冊の漫画を取り出した。数年前からずっと映画化したくて動いているのだ、と熱っぽく語り、できればあなたに脚本を書いてほしい、と最後に言った。
 都会育ちの少年が旅行先でバスを乗り過ごしたためにある小さな村に迷い込み、一人の田舎娘と出会うが、実はその村には夜這いの因習があり、少年はそれまで白かった思春期を図らずも汚されてゆく。大まかに言うと、そんなような内容だった。興奮して一気に読み終えた。
 書きたいという思いをすぐさま伝え、本格的に動き出そうとした矢先に、原作の権利をある中堅監督に押さえられたことがわかった。俺も漣子もまだまだ自主映画から上がったばかりの信用されない身だったので黙って引き下がるほか術はなく、残念会のつもりで新宿で湿っぽく飲んだ。飲めない漣子はウーロン茶を頼んでいた。
 それで関係は終わるはずだったのが、向こうから芝居への誘いがあったり、こっちから映画に誘ったり、互いになんのかのと理由をつけて、会った。終電で駅の改札まで送り、一人で飲みに行こうとするといつも、一緒に行く、という。金もなかったので、コンビニでビールと乾き物を買っては、よく花園神社の階段で始発の動く時間まで飲んだ。飲めないのにつきあわせて悪いなあ、としか思わなかったが、一方で、どうして飲めないのについて来るのだろうと不思議だった。
 男が監督してもただの映画監督なのに、どうして女が監督すると女性監督と呼ばれなければならないのか、というのがそのころの漣子の口癖だった。表現の上でも、生活の上でも、自分が女として扱われることに異様な嫌悪感を抱いていて、反面、女から離れようとすればするほど、自分が女であることがどうしようもなく溢れ出てきてしまう、その歯痒さが映画に取り組む上での彼女の個性になっているところがあった。
 実際、映画業界はいつまでも男社会が根強く残っているような幼いところがあって、女というだけで揶揄の対象になり、冷遇されるきらいがあった。いつか同業の集まりで飲んでいたおり、ふいに三木田漣子の名前が出たことがあったが、そのときも御多分に洩れず、誰も彼も作品なんか論じないで、美醜だの性癖だの何だの、あることないことべらべらまくし立てては下卑た声で笑っている。
 曲がりなりにも彼女とつながりのある俺は仲間に入るのも後ろめたく、また幼稚な彼らが腹立たしかった。けれどそう思う心がなぜだか恥ずかしくて、言葉が出ない。
 すると、女を描くことに定評のある老練の映画監督が、いつか漣子と飲んだときのことを話し始めた。彼は特に若手に辛辣で手厳しいともっぱら恐れられており、女に手が早いことでも有名だった。
「あの女、監督になる前は裸婦やってたんだと」
「らふ?」
「美術モデルだよ。画家の前で、裸になって」
「ああ」
「そんなもん風俗と変わんねぇだろ。自分の裸で金稼ごうとするところが浅ましいんだって説教したら、あいつなんて言ったと思う? 『あなたは御自分の作品で裸にならないんですか。覚悟が足りないですね』だってよ」
 哄笑の中で、負けたよ、と呟きすてて焼酎を啜る老監督に、すげえ女だなあと、胸のすく思いがした。自分の知っている三木田漣子とは違う別の女がいることに、感情が動いた。
 その後すぐに発表した作品が興行的にも批評的にもそこそこ当たって、ご褒美として連れて行ってもらった韓国の国際映画祭から帰国した数日後、土産を渡すために彼女を新宿に呼んだ。土産といっても、何味かわからない、けばけばしい原色と記号にしか見えないハングルに彩られた数個の袋麺で、普段こういうの全く食べないんですけど何もないよりいいので貰っておきます、なんて言葉とは裏腹に、漣子は嬉しそうに笑ってくれた。
 何軒か流し、最後、明け方までやっている中華料理屋に入っていつものように始発を待っていると、隣卓の男が絡んできた。腹だけ太った中年で、いやに豊かな黒髪の上で水玉のようなフケがてかてかといやらしく光っている。漣子はあえて反応しないでいたが、無視すればするほど向こうは執拗に身を乗り出してきた。酔っ払いに慣れているつもりの俺が適当にいなそうとしたら効果は逆に働き、受け入れられたと勘違いした男はますます調子に乗って、名刺などを差し出す。名も知らぬ小さな出版社の男だった。男は俺たちの名刺を欲しがった。
 ねえよ。と漣子が言った。俺も、男も、えっという顔で漣子を振り返った。欲しかねぇよ、おめぇの名刺なんか。気安く話しかけんな。漣子は、じっと卓の空芯菜の炒め物を睨んでいた。男の、うろたえ、ごまかし笑いしかできないでいる間に、俺は手早く勘定を済ませて、漣子を立ち上がらせた。
 まだ夜の明けきらない黒い新宿の中を徘徊しながら、俺たちは始発を待っていた。漣子はじっと拳を握りしめていた。ああいうやつらはいつでもどこにでもいるのだから、適当に笑っていれば終いには勝手に向こうから酔いつぶれてしまうのだから、あなたのように感情だけでぶつかっていくと損ですよ、だってそんなの、生きにくくてしようがないでしょう。そう諭すと、漣子は涙をぽろぽろ零し始めた。突然のことにうろたえた俺は、彼女をシャッターの降りたゲームセンター前の段差に腰掛けさせた。漣子はじっと口を噤んで、涙の流れるのに身をまかせていた。駅に向かう酔客の乱れた脚が二人の前をいくつも通り過ぎた。
 俺は、好きだ、と言った。漣子が、わたしも、と答えた。そのたったひとつのやりとりを交わすためだけの膨大な夜、幾多の手続きがあったのだと、言ったあとになって、ようやく謎の解けた思いがした。出会ってから半年の、冷たい秋の朝。
 俺たちはその足で始発の山手線に乗って、大塚駅で降りると、勤め人の流れに逆らいながら都電の線路を渡った。小さな坂を登ったてっぺん、あれよ、と漣子が指差した向こうに古いマンションが見えた。あれがわたしの部屋。
 それからまる二日間、電灯をつけることさえ煩わしく、俺たちは灼けた畳の上にずっと転がっていた。腹が減っても外に出る時間も惜しいので、裸に毛布のまま、土産に持ってきた韓国の袋麺を卵だけ入れて一緒に作った。案外美味しいのね、と漣子は元気よく食べた。それからまた畳に寝そべる。散々遊んで、眠気が誘えば誘われるままうとうとした。やがて何度目かに漣子が目を覚ましたとき、重ねた肩の震えに気づいた彼女は、昼とも夜ともつかない薄闇の中で、何を泣くことがあるの、と俺に微笑みかけた。


お読みいただき、ありがとうございました。こちらの続きは、9月7日より刊行の単行本『猫は笑ってくれない』(ポプラ社、税抜1500円)でお楽しみいただければ幸いです。


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