見出し画像

教室における「みんなちがってみんないい」の違和感

「みんなちがってみんないい。」

教師なら誰もがそう思っているし、そう思うべきだし、子どもにもそう思ってほしい。



「同じ」を強調する教師

しかし、教室で子どもに語る時には

逆の意味のことばかり言ってしまう。

「みんなと同じようにしなさい。」
「あなただけ特別扱いはできない。」
「普通そんなことしないだろ。」
「みんなに合わせないと迷惑だろ。」
といった子どもを叱る言葉。

「みんなの気持ちが一つになったね。」
「今日の学習は全員理解できたね。」
「みんな6年生らしくなってきたね。」
といった子どもを褒める言葉。

どちらにしろ「みんな同じ方がみんないいよね。」
という意味を含んでいる。

私自身、教室で子どもに対してこのようなことをよく言う。

そして、その後、心のどこかで違和感を感じる。

「みんなちがっていいはずなのに・・・?」

「教室」というハコ

なぜ教師は「同じ」を強調してしまうのか。

私は、「教室」という環境に理由があると考える。

狭い室内に、30人もの子どもが同じメンバーで1年間、

同じ内容で学習したり生活したりしなければならない。

そのため、教師には教室内の秩序を保つ責任がある。

1番手っ取り早いのは皆が同じ規律のもと、同じルーティンで生活させることである。

「みんなちがって」を全て認めてしまうと集団生活が成り立たなくなる。

だから教師の本音は

「教室の秩序を保てる範囲でみんなちがってみんないい。」

となる。

だから、「違いを認めよう。」「個性を尊重しよう。」という言葉がなんだか上辺だけのものに思ってしまう。

自由の相互承認

教育哲学を専門とする苫野氏の著書の中でよく

自由の相互承認」について述べられている。

・人は皆、生きたいように生きたい
・しかし、皆が皆、自分の「自由」を主張することは相手の「自由」を奪うことになる
・社会で他者と生活する上では、互いの自由を認め、奪わないようにしなければならない(自由の相互承認)
・学校はこの自由の相互承認の感度を育む役割がある

教室という小さな社会で生活する上では、子どもは自他の「自由」の度合いの折り合いをつける力を身につける必要がある。

私と小鳥と鈴と

「みんなちがってみんないい」の前提には、この互いの「自由の相互承認」がある。

金子みすゞだって走るときに小鳥に邪魔されたらブチ切れるのではないか。

お互いの自由を尊重している前提があるから認めあえるのだ。

私は子どもに「みんなちがってみんないい」と安易に言えない。

教室という社会のミニチュアは、いわば作られた虚構だと思っている。

結局はそれだけの存在なのではないか。

「私」と「小鳥」と「鈴」がその中で不自由なく暮らすのは、なかなか難しい。

うーん。考えがまとまらない。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?