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【短編小説】 渋滞 〜 打楽器奏者のチューニング


車寄せに列をなしている。タクシーの車体が西日の微睡むような陽光を反射する。ホテルのエントランス、自動扉が開いた際にだけ、弾ける華々しいかおり。排気ガス、水蒸気、人間、人間のかおり。黒光りするタクシーのドアが開いて、私を迎えようとする。後部座席に腰掛ける。「空港まで」と私は告げる。運転手はすぐさま車を走らせる。


「何時の飛行機ですか」

運転手から訊ねられて、とっさに今(その時点)から三時間後だと告げた。

「それなら間に合いますね」

運転手は速度を上げることも下げることもしないで、信号を待つあいだ以外は一定の速度で車を走らせた。停車も発車も滑らかで、まるで月面を走っているみたいに、重力を感じさせなかった。車に乗っていることを時折忘れてしまうくらいだった。

しかしながら、タクシーが高速道路を走りだしてしばらくの時間が経過すると、車はめっきり進まないようになってしまった。東松が目蓋を開けたとき、そこは渋滞の只中だった。

「おかしいな」と運転手はつぶやいた。「こんな時間に渋滞しているなんて」かれはカーナビの画面ととスマートフォンの画面を交互に叩いた。打楽器奏者がチューニングをするみたいに。東松は昔、打楽器奏者が自分の店を訪れたときの記憶を甦らせた。あれは、一年くらい前のことだ。秋が深まり、冬が始まろうとする頃。打楽器奏者は、長身の人物に連れられて、私の店を訪れた。扉を開けたのは長身のほうで、打楽器奏者はその後をついて店に入った。そしてエスコートをされて、席についた。

ふたりは揃ってシェリーを飲んだ。「シェリー酒を二杯」とオーダーしてきたのは、やはり長身の方だった。打楽器奏者はその間、ずっと俯いていた。自分の腿のあたりを、ずっと眺めているみたいだった。しかし、シェリーが置かれると、体勢は変えないまま目線だけを上げて、グラスのなかのとろりとした液体を見つめた。

「死ぬ前になにか口に入れられるとしたら、迷わずシェリー酒を選ぶ。私は、君に、同感だよ」

と長身の人物は言った。そうして、ふたりは、グラスを重ねたりすることもなく、それぞれのペースで飲み始めた。

東松がその打楽器奏者のことを、かれが店を訪れた夜のことを、こうして克明に憶えているのは、隣に座る長身の人物がとりわけ印象深かったからだ。


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