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アンディ・ウォーホルの青春。「愛(思春期)」と題された章に書かれているこの時期を、僕は今生きている

iMacで自分のカレンダーを見返していた。カレンダーには具体的な作業の内容についてはなにも記録されていない。僕が、カレンダーをつかってスケジューリングするのは、わりに「時間割」をつくる感覚と似ている。

例えば、この90分間はエッセーをする。次の90分間は創作をする。そうしたら30分間外国語の勉強をしたのちに、30分間を昼食の時間にしよう、というふうに。

そういえば、今年に入ってから僕はベトナム語を勉強している。毎日30分間。短い時間だけれど、毎日続けるということに意味がある。

ベトナムで仕事をすることになるかもしれないという話が持ちあがっているため、勉強を始めた。しかし、そういう実際的な理由とは、別の理由が僕のモチベーションになっている。そのモチベーションについては、今後の記事で明きらかにしていきたい。

今日、ベトナム語を勉強していて、初めて文字と発音がつながったような気がした。感覚的なことだからうまく言葉ではいえないんだけど、これ以降は、これまでよりも文字と発音の連関に苦労しなくなりそうだ、と思った。階段をひとつ上りきったような感覚。言語の習得や文法の理解にはいまだ程遠いので、まだまだ階段を上り続けなくてはならないのだけれど。

2月に入ってから、わりと自分が忙しくしていることに気づいた。先週水曜日にぺぺぺの会の定例会議があって、会議前にグループLINEで、ここ最近の成果物をいくつか提出させてもらった。

書き途中の長編小説と、同じく書き途中の戯曲(こちらはどれくらいのサイズになるかまだ見当もつかない)。

数年前の僕なら書き途中のものを誰かに見せたりはしなかった。2020年の初めに僕は友人に草稿を見せた。そのときにひどい言葉を浴びせられた。当人はそれがひどい言葉であるとは思ってもみない様子だった。しかし当時の僕に、その言葉は決定的なダメージを与えた。もはやその人物とは友人ですらなくなった。

そういう過去があって、2020年くらいから僕は書き途中の原稿を誰にも見せないようになった。書いては蓄えをひとりでに繰り返した。僕のPCのなかには随分とたくさんの小説(みたいなもの)やエッセー(みたいなもの)が無造作に散らかっている。機会を見つけて、フォルダを整理しなくては、と思ってはいるのだがなかなか行動に移すことができない。

作業部屋も散らかったままだ。整理整頓されているのは本棚とデスクだけ。書いたり読んだりするのに関係のない物品は床のうえで無造作に転がって家主に片されるその日を待ちわびている。

2022年。『斗起夫』を書くにあたっては何度か草稿を、ぺぺぺの会のみんなに見てもらった。けれど、執筆が本格的に始まってからは見せなかった。見せる余裕がそのときの僕にはなかった。

だから、今、こうやって書き途中のものを人前にさらけ出せるっていうのは、書き手としての僕に、いくらかの余裕が生じてきたことを意味しているのだろうか。

確かに、『斗起夫』を書いているときは、果たして自分が最後まで書き上げることができるのか、自分でもわからなかった。先が見えないまま、トンネルを掘り進めていくときに感じる恐怖に近いものがあった。

けれど今は(先が見えないのは今も同じなんだけど)掘り進めていけばかならず出口にぶつかって、そこにはまぶしい太陽の光が燦々と降り注いでいる、そんな確かなイメージが僕にはある。だからだろう。僕が作成途中の原稿を人に見せられるようになったのは。

それから、僕自身の意識の変化。これも大きい。

この頃は仕事を探しにポートフォリオを持って1日中歩き回ったあと、家に帰って絵を描いていた。1950年代のぼくはグリーティングカードや水彩、ときたま喫茶店で詩の朗読、そういうことをしていた。

落石八月月訳『ぼくの哲学』新潮社 p37

アンディ・ウォーホルの青春。「愛(思春期)」と題された章に書かれているこの時期を、僕は今生きている。


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