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ウエディングドレスを着るとき



親しい友人の結婚や出産がおめでたいけど寂しい、、あの子は家庭を持とうとしているのに、母親になろうとしているのに、一体私は何をしているんだろう??!

つい最近、歳下の友人からこんな感じのメッセージが届いて、励ましのことばを求められたのです。

うんうん。寂しいし、焦るよね。私もそういう時期があったなーと思い返します。

寂しいけどおめでたいから寂しいなんて言えないし、けれどその気持ちをひとりで上手く消化することも出来ず。夜風にあたりたい気分になってあてもなく車を走らせては迷子になり更に落ち込む夜なんかも経験済みです。

が、しかし。近頃の私はもう、「タイミングも選択も、人それぞれだからねえ。」というひと言で、心はすっかり落ち着いてしまうのです。



けれど彼女がいま求めていることばは、こういうのではないだろうな。きっと彼女の心情は、あてもなく車を走らせて迷子になったあの夜の私のものと似ているだろうから。はて、どんなことばを届けてみようか。

少し考えて、思い浮かびました。ありました。私の、ウエディングドレスに関する持論が。

伝えた後に、やはりこれも的外れだった気がして。ごめん!いいこと言いたいって考えてるけど何もいいこと言えない!と白状すると、思いのほか彼女にはその持論が求めていたことばの類だったそうで。感謝さえされました。

ということで、調子に乗ってその持論を書いてみちゃいます。私が思う、ウエディングドレスへの考え方です。



「ウエディングドレスは、私がいっちばん綺麗なときに着る。」

これが私の持論です。

綺麗なときというのは、ブライダルエステをして、結婚式に向けてダイエットして、などということは関係ありません。この場合の「とき」は、一日や一週間などの単位ではなく。人生を年表で表すのであれば、ひとつの「時代(とき)」と表現するイメージの「とき」です。

結婚式が済んだら綺麗ではないの?!などというツッコミは、まだしないでください。誤解のないように私がこう考えるようになった理由をお伝えします。



私は10代後半から自分の体型にコンプレックスを持ち始め、社会人になって以降〜20代半ばまでは自分の肌に相当なコンプレックスがありました。鏡を見れば涙してしまう程に荒れた自分の肌が大嫌いで、人前に出ることも嫌でした。

見た目だけでなく、中身もコンプレックスだらけでした。NOと言えないだけなのに、いつもどこかに被害者意識があって。頑張るを履き違えては、自分を大切にできなくて。勇気が出せないだけの自分の人生を、誰かや環境のせいにしたくてたまらなかった時期もあります。


同級生には、20歳前後で結婚する子が何人もいました。ウエディングドレスを着る人を初めて目の前にし、うわあ、綺麗〜。と呟かずにはいられない感覚を知りました。とびっきりの明るい笑顔が当時の私には眩しくて。友人のいつもと異なる雰囲気のヘアメイク姿に、こういう髪型も似合うんだ〜と驚いたり。

20代半ばでも、やはり結婚ラッシュというものがやってきました。同じように、綺麗だな〜と思うのですが。学生の頃からはガラッとメイクや雰囲気が変わった同級生の結婚式に参列した時に、私は考え始めたのです。



ああ、きっと彼女には、いまの彼女がこれまでの彼女の中でいちばん似合っているんだろうな。昔の彼女がしていたお洒落より、いまの彼女が好むお洒落が彼女に似合っていて。昔の彼女の生き方より、いまの彼女の日々の過ごし方が彼女に合っていて。

そういうのが落ち着いたときこそが、その人がいっちばん綺麗なとき。だから、ウエディングドレスがとっても似合って、あんなに笑顔が輝いていて、すっごく綺麗なんだ。

私も、これまでの私よりももっと、私に似合う私になったとき、きっとウエディングドレスを着るんだろうな。いまの私は、ドレスを着たところで全力で笑えないし。私はもっと、私に似合う私に、自信を持つ日がくるはずだ。


友人の変化、寂しさや焦り、そして自分自身にひたすらひとりで向き合った結果、そう思うようになりました。そんな風に考え始めると、周囲の人の変化を気にして焦るよりも、「自分の人生をどうしたいのか」を考える時間が多くなりました。

最初からこんな風に思えたわけではありません。やはり家庭を持つことは友人の優先度が下がることに繋がると思います。優先度が下がる側は、どうしたって寂しさを感じてしまいます。実際私もそれが続いたことで、見事に卑屈になった時代もあります。

けれど一度卑屈になってみて分かったんですよね。いつだって、自分が自分を優先していてあげればいいということを。


適齢期と呼ばれる年齢で結婚することが幸せだという概念に囚われていた自分にも気付き、果たしてそれが私自身にとってもそうなのか?と、もう一度よく考えてみました。

他人や世間一般的にはそうかもしれなくても、私がいっちばん綺麗な「とき」は、世間で適齢期と呼ばれる年齢と一致するとは限らない。そんなの年齢や一般論に左右されるものじゃないと思いました。



私は遠回りしがちな人間で、寄り道をする中でちょっとずつ逞しくなってきました。そこにかけた時間は余分だったかもしれないけれど、無駄だったとは思っていません。時間をかけて学んだことがたくさんあります。

私は自信を持って、20代のあの頃の自分より、30歳の逞しい自分が自分に似合っていると言えます。心と繋がっていた見た目のコンプレックスも克服してきて、あの頃よりもずっと、私が私をしているな〜と思います。ちょっと変な表現ですが。

この先で人生のパートナーに出逢ったとして、結婚というカタチを選択するかどうかは未知ですが。結婚するのならばNew Zealandのテカポ湖の畔にある小さな教会で挙式して披露宴はピクニックにするんだ!!!という夢を抱いて、それをnoteに書いたことがあります。

私の持論を持って言うのであれば、一年前の私よりも今日の私の方が、ウエディングドレスを着る私に近づいているでしょうね。すみっこぐらしのぺんぎん?に激似だとしても。私は私に似合う私の生き方のコツを掴み始めたなあ、と思う今日この頃です。




他人と比較しやすいシステムで成り立っている世の中です。情報がどんどん溢れる中で、周囲と足並みを揃えなさいと教えられてきました。

そんな私たちにとって、他人と比べない・周りを気にしないということは、あまりにも難しいことかもしれません。自分以外の人はみんな進んでいるように見えて、不安になったり、寂しさから焦ることも、仕方がありません。

でも、大丈夫。ウエディングドレスって、自分がいっちばん綺麗なときに着るようになっているから。証拠なんてどこにもないけど、私はきっとそうだと確信してるから。

私の友人へ。

じっくり読んでいただけて、何か感じるものがあったのなら嬉しいです^^