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村上春樹と荘子を読みながら、自死を避ける道を択ぶ。もしくは探る。

10月も半ばですね。

今年はコロナ禍で多くの人が"死"を想ったことでしょう。

"死"を想うことで、私には意外な副産物といいますか、精神的な収穫がありました。

それは、青年時代から宿題のように残っていた、積読状態の書籍に向き合うことができたのと、それを読破することができたことでした。

カミュ「ペスト」・ドストエフスキー「悪霊」・フランクル「夜と霧」という、いわゆる実存主義の巨人たちです。

世間でも「ペスト」の増刷は話題になりましたね。

私も死ぬまでに読んでおいて良かったと、心の底から思いました。

だけど、何かが違うという違和感は残りました。

違和感の原因は、私がキリスト教徒ないしは、その文化圏に属していないことだと思っています。無神論も含めて。

何か金属に触れているような、無機質な感触がずっと通奏低音のように。

心のどこかに冷気を吹きかけられているような、そんな冷たさのような感じが続いていたのです。

人は余命宣告を受けると、海外旅行に出かける人と幼少期に歩いた道を訪ねに行く人の、二種類の人に大別されるようです。噂で聞いたことがあるだけですが。

私は、コロナ禍の影響で、実存主義文学という海外旅行に行ったのでしょう。読後感に自死のイメージが湧きおこってくるのを感じました。西洋人の思想文化には、日本人である私の血を通わせることはできませんでした。思想に抱擁されるような安らぎを感じることがなかったのです。

ここ最近、メディアを通して親しんでいた俳優が二人、自死を択び衝撃を受けました。特に女優さんの方は、若いころから多くのTVドラマや映画で、楽しませてもらったり涙を流させられたりしてきた人でした。

現代特有の疑似近親者の喪失感とでも呼ぶべき、喪失感でしたね。

現在の私は、急激に無気力に囚われてしまっています。

この3年間、私はほぼ休みなく働き通して来ました。

しかし、最近は休みを取得するようになりました。

今日も休日でしたが、特に何の感興も湧きません。ただ、無為に過ごしたように思います。

本棚に目をやると、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が目に留まったのです。そして、「荘子」と。

自分の原点に。

これから、幼少期の道を辿ろうとしているのかもしれません。もしかすると、この二つの本は、私に生きる意志を与えてくれるかもしれません。

何の意味もなかった自分の人生を、悲観的にではなく受け入れる力を。しんどい世の中に身を置きながら、それでも無為自然に生きることができ、自然の定めにしたがって一生を終えることを。


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