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スキャナー・ダークリー 深淵を観察したもの

前回ハーモニーコリンのビーチ・バムを簡単に解説させてもらったが、今回も同じように若干マニアックだというイメージで語られがちなスキャナーダークリーについて語っていく。

現代の鬼才リチャード・リンクレイター監督

リンクレイターという名前を軽めに知っている人は、おそらく「スクール・オブ・ロック」というほんわかした音楽コメディを思い浮かべるかもしれない。あるいは、BBCが選ぶ21世紀の映画ベストで第5位に輝いている「6才のボクが大人になるまで」の監督かもしれないし、あるいは「ファストフードネーション」でアメリカのファストフード業界のグロテスクな裏側を告発した監督のイメージかもしれない。
まあとにかく多様な作品、そして「インディーズとメジャースタジオを好きなように行ったり来たりし、大衆受けするものから絶対にしなそうなものまで自由に作風の幅を持っている監督」と述べられる事が多いと思う。

しかし具にこの監督の作品を追っていくと見えてくるのは、「映画表現とは何か・どうあるべきか」という映画そのものへの挑戦をやってくる監督という側面が強い。

映画そのものへの挑戦

例えば「6才のボクが、大人になるまで」では、主演の6歳のメイソン(エラーコルトレーン)が18歳になるまでの12年間をリアルタイムで撮影していった。

1人の少年が次のシーンになるたびに本当に年を取っていく恐ろしさ

当然のことながらメイソンの家族や友人も同じキャストで12年間リアルタイムで経過し、その12年間映画が完成しないため、キャストたちはずっと自分のフィルモグラフィとして上げることができなかった。

それだけ聞けば「ふうん」くらいの感想しか湧かないかもしれないが、この事は考えれば考えるほど正気の沙汰だと思えない。
なぜなら少年時代に父親であるイーサン・ホークが乗っていた車も、制作陣は劇用車としてずっと保管し続けなくてはいけない。ロケセットに使った家も、保管し続けるのは制作スタッフに取っては地獄だろう。

そしてまた、脚本にも影響が大きい。メイソンの姉のサマンサは途中で赤髪になりアヴリンラヴィーンかなんかにハマっていたり、イーサン・ホークも小ブッシュに対して批判的な政治的見解を持っていたりするのだが、かといって今後これらがどうなるのかの未来がシナリオライティングをしているリンクレイター自身にも皆目わからないのだ。
もしかしたら未来ではアブリルは誰もしらない一発屋扱いされてるかもしれないし、小ブッシュの政治的な評価が再評価を受けてるかもしれない。

つまり、シナリオ自体も明確なストーリーラインがなくその都度都度のアメリカの今を切り取ってそれに合わせて紡いでいくという即興性の中で作られていく。

しかしそういったある種行き当たりばったりなシナリオでも芯が通っているのは、たとえどんな状況下に置かれても家族のために生きよう、すれ違いや価値観が衝突しても唯一の家族を大切とする想いで貫かれているからだ。

他にもビフォアシリーズでは、7分くらいワンカットで会話をやらせたり(しかも即興ではないらしい)、実験的な映画づくりを行なっているという意味では、ハリウッドの映画監督にしては珍しくロベール・ブレッソンやジャン・ユスターシュなど「映画とは何か」を追求し続けた監督たちとの共通点が見られる。

さてスキャナーダークリー

スキャナーダークリーにて行われている実験は「ロトスコープ」と呼ばれるアニメーション技法だ。

なんと全編ロトスコープ

この技法は一旦実写で役者に芝居をさせた上で、そのコマ1枚1枚を全てトレースしていくという非常に作業負荷の高い手法だ。
映画内の一部でこの手法を用いることは過去あるにしても全編ロトスコープというのは前例がない、それくらい負荷が高いやり方であるが、全編この手法であることにこだわっている。

ではなぜこんなめんどくさい手法にこだわるのか、そして多くの観客が「もうこれいいから実写にしてくんないかな、見ずらい」と感じると思われるが、まさにそれこそが狙いであり、現実と自分の認識の間に一枚薄いフィルターが常にかかっていて真実に届かないようなもどかしさを狙ったものだと思われる。

原作「暗闇のスキャナー」について

原作は映画ではお馴染みのSF作家フィリップ・K・ディックだ。ブレードランナー、トータルリコール、マイノリティーレポート、ペイチェックなど多くの作品が映画化されているが、本作「暗闇のスキャナー」は読んでもらえればわかるが、異色の作品だ。

これはディック自身の70年代のドラッグ依存時期を描いた自伝的な作品と言われている。

あらすじ

近未来のアメリカ。世の中には「D」と呼ばれる危険なドラッグが隆盛している。そのDは一体どこから流通しているのかを調べるために麻薬おとり捜査官としてジャンキーの群れの中に入っていく捜査官の主人公のボブ・アークター。
しかしジャンキーたちもスパイを常に警戒しており、その警戒を解くためにボブは自身もDを使用することになる。

Dの神経系への作用機序は恐るべきもので、通常人間の脳内で連結している右脳と左脳が連携をとる機能を遮断するという効果を持っている。
そのため人間の認識能力というのが破壊され、見ているものと認識しているものの間にずれが生じてくる。
ボブも次第に、「自分は囮捜査のためにジャンキーに入っているのか」、それとも「元々ジャンキーで捜査情報を掴むために麻薬捜査組織に潜入しているのか」と自分は一体誰なのかさえ次第にわからなくなっていく。大まかにはこういう話になっている。

世界の真実を掴めると思っていた

ディックという人物は70年代には正直鼻持ちならないやつだった。彼は「自分が描く小説の方が現実よりも真実に近い」とまで豪語していた。
選ばれしものとしての才能を圧倒的に誇っていたばかりか、いわゆるニューエイジ的なスピリチュアル思想にもどハマりし、まあ今の感覚で言えば「イタイ」と言われても仕方ない時期だった。そしてその頃にあまりに多くの友人をドラッグで失ってしまうことになり、その事を悔恨の意思も込めて書いたのがこの暗闇のスキャナーなのだ。
凡庸なヤツらにはわからないこの世の真相を自分たちだけは知ることが出来ると傲慢に思い込んでいたけれど、みんな無惨に死んでいってしまった。
小説の最後には亡くなった友人たちの長大なリストが実名で登場する。(実はディック自身もブラックジョークでこのリストにいる)
その「世界の真実を垣間見た、しかしそれは真実などではなかった」という喪失感をリンクレイターは全編ロトスコープで表現することにこだわっていると言えるだろう。

また、この世の真実を知り救世主となるネオを演じたキアヌリーブスを持ってきたことにも説得力がある。

このフィルというのは作者本人である

この最後のテロップ・スタッフロールではレディオヘッドのトムヨークの個人名義のアルバムより「ブラック・スワン」という曲がかかり、最後に背筋が凍りつくような感動が襲う。

ブラックスワンの導入の歌詞
What will grow crooked, you can't make straight (捻じ曲がって育つ、真っ直ぐに矯正はできっこない)
という歌詞は、哲学者イマヌエルカントの言葉を下敷きにしたとされている。
Out of the crooked timber of humanity, no perfectly straight thing can be made.
(人間性という捻じ曲がった木材から、まっすぐのものが生まれた事はない)

この歌詞自体も深淵を覗き込んだものの悲しみが見て取れる。
スキャナーダークリーは非常にドラッギーな映画なので、会話なども追っていてもだんだんこっちもおかしな気分になってくる危険な映画でもあると思うが、読みずらい原作に血肉を通わせた素晴らしい映画に仕上がっており、未だ過小評価された映画だと思う。


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