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短編小説 千日手〜P2P4曲目 つよがりより〜

胃の奥の方で何かの塊が暴れているような感覚。
久しぶりの感覚。
これはあれだ、あの頃の感覚と同じだ。
僕は、地図のない場所に1人で立っていて、そこは荒涼とした大地が広がる、ただの場所だった。

奨励会の三段リーグを抜け出せず、僕はプロ棋士になれなかった。
迫り来る年齢制限の壁が迫ってくるのに全く上がらない勝率。
棋士は研究が全てだ。
棋譜を並べてはそれを自分の中で記録し、その記録した引き出しを四方八方開けて、幾度も試す。
そうやって自分の戦法を決めていくのだ。

それが面白くて楽しくて、僕はプロ棋士を目指した。
だが、ある一定の時期から、その研究に限界を感じるようになった。
自分の研究を超える手を相手が打ってくるようになったからだ。
それは、未開拓の場所にいきなり連れ出され、引き出しのない、荒涼とした土地にただ1人裸に近い格好でいきなり放り出されるようなものだった。

プロ棋士になるには、これに対してどう立ち向かえるのか。
僕はこれが鍵だと思っている。
面白いとクエストをクリアするように飛び込んでいくのか、地図を無理やり開いて突き進んでいくのか。スタート地点に戻って地道に突き進むのか。
はたまた、足がすくんで動けなくなるのか。

僕は最後の人間で、つまり、その場から飛び込むことができず、足踏みをした。

何もできない不甲斐なさと、飛び込む勇気のない情けなさで、胃の奥の方でいつも何かが暴れていた。

その時と似た感覚が、今、僕を襲っていた。

僕は、彼女を失おうとしていた。

コーヒーを服にかけられるという、漫画みたいな出会いをした真琴さんに、一目惚れに近い状況で惚れ込んだ僕は、なんとか彼女と付き合い始めた。
付き合ってみたら、彼女はやっぱり楽しく、自分自身でさえも知ることのなかった感情や表情を引き出してくれた。

「透さんは、正直だから。笑ってる時は本当に楽しいってわかる。だから、安心する」

真琴さんはある日、そう言った。

僕は棋士を目指していたからか、普段からポーカーフェイスで感情を表に表さないタイプだった。
感情を表に出さない僕は、ある意味ロボットのような感じだったので、つまらない人間だと思われているんじゃないかと、いつも人とはある程度距離を取っていた。

それなのに、真琴さんにあの時「安心する」そう言われた。

僕はその言葉で、自分でいていいんだ。
そう思えるようになった。
不思議な話なのだが、それまでは、棋士を目指していたことをひた隠しにしていたし、将棋盤を見ることもなかった。
それなのに、真琴さんにそう言われてから、棋士を目指していた自分が認められたような気がして、僕は趣味ではあるが、また将棋を指すようになっていた。

「楽しい」
それと同時に、人と過ごして、心からそう思えるようになっていた。

だけど、その『楽しい』だけでは乗り越えられない事態になっていた。

あれは真琴さんの部屋で過ごしていた時だった。
いつものようにキスを交わす僕の目に飛び込んできたのは、一枚の写真だった。

南の島、沖縄の写真。
それは、真琴さんと亡くなったご主人、壮一さんとの思い出の場所であり、思い出の写真だった。
真琴さんにとって壮一さんは忘れられない人であり、忘れたくないと思っていることも知っていたし、それを含めて好きになっていくと、真琴さんに宣言もしていた。
だから、壮一さんの空気を感じる写真も片付けなくていいと、僕からお願いしたし、それで良いと思っていた。

なのに、あの時僕は、ため息をついた。

それに気づいた真琴さんが僕にわからないように写真をパタリと倒した。

「何してるの?」
僕は自分が見透かされているようで、それを誤魔化すために真琴さんを問いただした。

「何って…」
「僕、気にしてないって言ってるよね」
「だって…」

僕は言葉を遮るように、写真を戻した。
南の島の色とりどりの風景が、何かを訴えるようだった。

その日から、少しずつお互いがギクシャクしていくのがわかった。
僕も真琴さんもその距離を埋めるべく努力したが、何故だか距離は開く一方だった。
僕は真琴さんのことが好きだし、真琴さんも僕のことを好いてくれているのは肌で感じている。

なのに、なぜ。

僕たちは、出口のない深い溝にはまり込んでしまったようだった。

そしてついに、真琴さんの口から、今日で最後にしたい。
そう言われてしまった。

なんとなく覚悟はしていた。
覚悟はしていたけど、覚悟を決める事はできない。

「どうして?急に」

「急でもないよね。ここの所感じてたよね、お互い」

そう言われて僕は黙るしかなかった。

「もうね、私が耐えられなくなっちゃったの。壮一と透さん、2人への思いを抱えながら進む事ができなくなっちゃった」

「でもそれは、僕は壮一さんを好きでいる真琴さんも受け入れていくって、そう言ったじゃない」

「うん。そう言ってくれたね。でも、ごめんなさい。これは私の問題なの。それに、最近透さん笑ってないもん。それは私のせいだよね」

「そんなこと…」

あのため息をついた時から、お互いの溝を埋めようと僕はもがいた。
もがいて、いつも笑わないところで笑ってみせたり、僕らしくない事をしていた。
無理をしていたのがバレたのだ。
ただ、真琴さんを手放したくない、その一心だったのに。

あの時ため息をついてしまった自分を殴りたかった。真琴さんにも、あのため息を聴かなかった事にして欲しかったけど、もう取り返しがつかなかった。

「いやだよ」

子供のように、そう言うことしかできなかった。
そんな幼稚な言葉しか出てこないほど、この別れは確実だと言う事を悟った。

これが将棋の千日手であれば最初からやり直せるのだが、僕たちが入り込んだのは、将棋盤ではなく、空が見えないくらい深くて曲がりくねった、地図に載っていない、深い溝だった。

僕は大きく息を吸って、真琴さんを見る。
こんな時も真琴さんは憎らしいくらいに綺麗だった。
好きだ。
その気持ちが全身から溢れるのを僕は、いつものポーカーフェイスで押し込めた。

「うん。わかった」
(本当はわかってなんかない。)

「今までありがとう」
(ありがとうなんて言いたくない。)

「それじゃあ」
僕は真琴さんに背中を向けた。

好きだ、好きだ、好きだ。
その気持ちを、別れたくないと言う裏腹な言葉を、ポーカーフェイスに押し込んで、僕は歩き出す。

振り向けなかった。
振り向いたら、真琴さんを見てしまうから。

僕らが2人で描いた地図は、深い溝にはまり込んでしまって、前に進めなくなった。
あんなに色とりどりに見えてた地図のシャツは、ただの、コーヒーのシミがついたシャツになってしまっていた。

あとがき
松下洸平さんのツアーPOINT TO POINTに参加しました。
あまりの楽しさに、私はツアーのセットリストでお話を作ってみることにしました。
今回は、4曲目の『つよがり』です。
交差したはずの2人の時間が離れていく様を描きました。

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