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詩の編み目ほどき⑤ 三好達治「昼の月」

今回は、三好達治34歳の詩集、昭和9年7月刊行『閒花集』より、次の詩1934(昭和9)年4月「世紀 創刊号」初出の「晝 ( ひる ) の月」を取り上げる。旧漢字体、旧かな使い表記。

 晝 ( ひる ) の月     三好達治

 ―― この書物を閉ぢて 私はそれを膝に置く
 人生 既に半ばを讀み了( おわ ) つたこの書物に就て ……私は指を組む
 枯木立の間 蕭條と風の吹くところ 行手に浮んだ晝の月 ああ
 あの橇 (そり) に乘つて 私の殘りの日よ 單純の道を行かう 父の許へ

🟣「父の許へ」の、父とは

はっと目に止まるのは、詩の最後の行の「父の許へ」。
これは、母恋いの詩人とも呼ばれる三好達治の詩句として、たいへん意外な一言に見える。達治三十代半ば、壮年のただ中にあって、自分を受け入れてくれる存在として、遠い先に父がいると信じる真情を吐露した言辞と受け取るしかないだろう。達治の父は、この詩集発刊と同年、昭和9年10月に没している。
達治は、小説と称した一文『暮春記』( 昭和11年5月、雑誌「改造」発表 ) で、父の面影を題材に、6歳の時養子に出されたいきさつを、父と子の会話のやりとりとして描いている。長いが、その部分を抜き出す。

父は重ねてかう云つた。
 ―― この小父さんが、小父さんとこのお家へ、お前をつれて歸りたい、さう云つてゐなさるんぢや、小父さんのお家へ、お前をつれて歸りたい、さう云つてゐなさるんぢや、小父さんのお家は、五時間も六時間も、汽車に乘つて行くんだよ、ね、解つたかい、お前は小父さんと一緒に汽車に乘つて、小父さんのお家へ行くかい、小父さんの、お家へ行つて、小父さんとこの子供になるかい、いやならいや、行くなら行く、さあ、よう考へて、お前の好きなやうに返辭をしてみなさい。
 その時父は、きつと、いい加減醉つ拂つてゐたのに違ひない。酒客といつては父一人の、その晩餐の食卓の上にはビールの罎が並んでゐた。一つには、酒の上の氣まぐれから、父は私に、そんな難問を試みる氣にもなつたのだらう。私が行くと答へたら……。骰子の目よりも賴りない私の言葉に從つて、父は私を、Sさんに養子に上げる、そんなつもりでゐたのである。そんな奇妙な約束が、先刻からの雜談中に、出來上つてゐたのださうである。
 父にさう云ひ聽かされると、もうその上、私は愚圖々々逡巡してもゐられなかつた。私は返事に逼られて、一寸思案をめぐらした。しかし別段私には、何をどう、思案をするほどのこともなかつた。
 一つのことを思ひつくと、私はきつぱりかう答へた。
 ―― 行く……。
 ―― 行く? 行くのかい?
 ―― 行く。
 私は重ねてさう答へた。父は眞顏に聞いてから、初めて一寸笑顏をつくつた。祖母が私を手許に呼んで、同じ質問を繰りかへした。私はやはり行くと答へた。私の母は、この出來事の前後を通じて、相談に與つた樣子はなかつた。茶の間にでも下つてゐたのか、その時は、姿さへも見せなかつた。
 こんな單純な、奇妙な、さうして大膽な問答の後、私はほんとに、私の答へに從つて、それから十日ばかりたつてから、私の新らしい父のSさんにつれられて、汽車に乘つて出發した。

『暮春記』より

おそらく演出的な場面で、『暮春記』一編を、小説と称したのが頷けるのだが、伝記上はこのとおりで、明治39年、6歳の達治は舞鶴のSさん、佐谷家へ居を移す。
しかし達治は長男である。他家へ養子に出る必然的理由はない。旧民法下、長子家督相続制度の社会であることを思えばなおさら、不可解なことである。実際、養子縁組は、籍を移すことはできなかった。
この養子一件の事情として、ごく一般的に考え得ることは、父の目論見もない、常識外れの凝りようで傾いていた家計 ( 印刷業 ) を原因とする口減らしの意味があったということだろう。しかし、その年のうちにこの関係は解消され、達治は兵庫県有馬郡三田町の祖母のもとへ引き取られた。

お前が行くと云つたから、―― と、これはずつと後になつて、父がある時、私に云つたことがある、―― 行くといふのなら、何かの緣といふものだらう、たとへさうして行つたところで、緣がなければ、戾つてくるに違ひない、自分はさう云ふ考へで、お前が行くと云つたから、それなら行つてみるのもいい、ともあれ一度、伴れて歸つてごらんなさい、さうSさんにも云つたのだ、どうせ子供のことだから、もしそちらへ行つてから、歸りたいとでも云ひだしたら、その時は、どうかつれてきて下さい。そんなこともないやうなら、そのままお宅へ差上げませう、ものは試しに、まあ一度つれて歸つてごらんなさい、さう云つたのだ、何もこちらから、貰つてほしいと賴みこんだ譯ではない、もともと向ふから懇望された話であつた、それで私は、お前を呼んで尋ねてみると、お前も覺えてゐるだらう、お前が行くと答へたから……。といふのが、私の父の意見であつた。一寸變つた意見である。

『暮春記』より

達治の父は、大正10年には家業を破産させ、家族を捨てて出奔した。本当のところは、父について「一寸變つた意見である」というような軽い感想しか達治になかったとはとても思えない。
上の記述に見られるいいかげんな父を、達治は ( 自分は一度は捨てられた ) と思い、憎んでいたと想像してみるのだが、不思議にも、そんな感じはこの『暮春記』の記述からはうかがえない。
確かに憎悪の思いがあれば、父については全く沈黙するか、少なくとも『暮春記』のような淡々とした描写で、この一件については語らないだろうとは言えるだろう。

私の年齡を尋ねるのは、機嫌のいい時の、父のいつもの癖である。父も私も、少しばかり酒を飮んだが、もうその上、寛いだ氣にもなれなかつた。
 間もなく私は腰を上げた。父も引きとめようとはしなかつた。別れの挨拶もそこそこに、私は戸外に出た。父も私の後に續いて、下駄を突つかけて外に出た。さうしてその前庭の、門柱のところに立ちどまつて、もう一度私に言葉をかけた。
 ―― さやうなら。
 ―― 御機嫌よう。
 他人行儀な挨拶で、私達は會釋をした。
 それからやがて、五分ばかりも步いた後、その赤屋根を見るつもりで、私は後ろをふりかへつた。父の姿が眼に入つた。私は一寸會釋をした。それからまた暫くたつて、私の步いてゐた一筋路が、そこのところで、曲つてゐる、人家に近いあたりにきて、私はもう一度ふりかへつた。父はやはり立つてゐた。腰から下は荊棘か何かの垣根にかくれた、浴衣がけの父の姿が折からの暮色の中に、くつきりと浮んで見えた。父とは不釣合な赤屋根も、もう私には、をかしなものには見えなかつた。
 私は杖を擧げて合圖した。
 父のはじめた養鷄事業は、やはり間もなく失敗した。

      7

 最後の病床に就いてから、五十日ばかりの間、父は殆んど昏睡狀態を續けてゐた。それでもしかし、時とすると、ほんの僅かな短い時間、深い夢から醒めたやうに、微かな意識をとり戾してゐることもあつた。そんな時には、看とりの者と、何かの聯絡もない斷片的な、話を交えることもできた。
 ―― お父さん、お水を上げませうか?
 ―― うん。
 それくらゐの返辭はした。
 ある時私は、父の口に飮みものを含ませながら枕もとから、こんなことを尋ねてみた。
 ―― おいしい、お父さん?
 ―― はあ、ありがたう、おいしうございます。
 父ははつきり、そんな叮嚀な言葉で答へた。それを聞くと、私は一寸胸がふたいだ。私はその後、父に言葉をかけるのも、躊めらふことが多くなつた。父は何の考へもなしに、狂つた神經の反射作用で、そんなことを云つたのだらうか。それはさうに違ひあるまい。或はまた、父はその時、耳に聞えた私の言葉から、何か一つの情景を、空想してでもゐたのだらうか。そんな風にも、考へられないことはない。しかしまた、私の父の人となりには、あんな場合、あんな返辭をしかねない、さういふところがあつたとも、云つて云へないことはない。

『暮春記』より

🟣『暮春記』を書いた理由、そして隠された思い

『暮春記』は、父が亡くなって、2年足らずのうちに書かれている。哀れな人生だった父を、書き物の上で救済したい思いがあったと私には読み取れる。しかし、達治は雑誌「改造」にこの一文を発表したあと、自分の著作に収めることを生涯しなかった。友人にも、この作を否定する言を書簡で告げている。
再録を許さず封印した理由を思うとき、真実を隠したから、あるいは曲げたものが書かれているからと思わざるを得ない。もう少し違った書きようがあったという気持ち、あるいは、養子行きの一件は、小説仕立てとはいえ題材にすべきではなかった、という悔いがあったとさえ思う。
創作の衝動と引き換えに、創作の題材にするのはためらっていた部分を、結局は語ってしまったのかもしれないが、それが真実であるなら、いったん世に出した作品がどう読み取られてもいい覚悟があったはずなのだが。

『暮春記』で触れていない重要な点は、養子行きで達治の心は屈折を味わったということだと私は思う。『暮春記』執筆は、養子行きとなったいきさつを、父と子それぞれの人格の奇妙さに発するものとして、いわば鋳型にはめこみ、心のうちの陰影を取り除くことで、ケリをつけている。
しかし、6歳の長男を親戚でもない他家へ養子に出す理由が、達治が述べているような、子の意志を父が掬い上げてといった事情であるとは納得しがたい。そんなことが重大な決定の理由にはならないだろう、としか思えない。
父の思いを善意で想像してみるに、達治の才能を感じ取り、自分の手元に置くより養子に出す方が、達治のためになるという思惑があったのかもしれない。そして、父は自分の破綻、滅びを内心恐れていたのだろうかとさえ思う。
達治は、昭和18年の戦時下、43歳で離婚し、若い日に一度は求婚し、以後長年の思い人萩原アイと福井県三国で暮らす。達治のこの出奔と言える身の投げ出し方、のめりこんでゆく性情は、大正10年に家業を破産させ、家を捨てた時の父の姿にどうしても重なって見えて来る。

視点を変えて語る。
なぜ詩を書くのか、何が詩人として生きさせるのか、詩人はつねにその問いから離れられない。そして、繕いの施せない傷心が、表現行為の動機に結び付いていることに、詩人は頷かざるを得ないだろう。
『暮春記』執筆は、養子行きの一件での傷心を、悪く言えば内的衝動の結果であると糊塗することによって、自ら慰撫せずにはいられなかった営みであったと思う。
詩人には、幼少期の経験が、後年に始まる創作の核心になると思う。幼少期に、父母欠けることなく、その上さらに優しい祖父母や兄弟に恵まれ、その時代の庶民の取り得る穏やかな暮らしにあって、坩堝の中の発熱物のような激烈な思念に洗われることなく育った者は、先ず間違いなく詩人にはならない。
もしそのような生い立ちの者が創作として詩を選び、書き続けるエネルギーを保ち続けようとすれば、叛逆のように自虐を題材とした立ち位置をとることになり、そしてその観念性ゆえに創作は早々に行き詰まるだろう。

『暮春記』が、どれほど真実を吐露しているのか、どれほどの嘘を織り込んでいるのを知る手がかりはない。しかし、『暮春記』からわかるのは、達治が、幼くして自らの言葉で実家を離れる原因を作ったと感じとるような、一所不在の魂、安逸に浸り切れない性を持って生れついた自覚が、自分を衝き動かし、人生の行路を迷い多きものにしている戸惑いである。
私は、養子行きの件が残したその傷心ゆえに、この件は、達治が後年詩人として生きる道への出発点となった決定的な出来事であったと考える。

🟣「人生―讀み了( おわ ) つたこの書物」の始まりの紫陽花いろ。

「晝の月」では、《行手に浮んだ晝の月/ああ/あの橇 (そり) に乘つて》と、昼の空の月を橇の比喩でうたっている。その詩句に、この詩を書いた時点ではまだ存命ながら、すでに病み衰えていた父の魂を重ね合わせているはずだ。父の魂に導かれて、「父の許へ」ゆこうと言うのだ。
このとき、すでに達治の頭脳の中には、『暮春記』を書かずにはいられない
衝動が湧いていたと思う。世間的見方からすれば、全く失格の、責任を果たさない父である。それなのに、その父の不徳の生き方を、擁護したとも感じられるのが『暮春記』である。
「晝の月」の《單純の道を行かう》とは、含んだ意に広い解釈を許す詩句である。そのひとつの解釈として、短絡的な見方ながら、俯瞰的な眼で見れば、後年、昭和18年の萩原アイとの同棲にまで尾を引いている人生指針にも見えて来る。己の心底から噴き上げて来る情念に生きることを肯う。
《單純の道》は、達治のような生来の、天成の詩人には、危な過ぎる自己暗示であるが。

そして「晝の月」の詩句には、処女詩集『測量船』所収の「乳母車」に響き合う詩句があるのに一読で気づく。もちろん、「晝の月」の方があとに書かれた。

乳母車           三好達治

母よー
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり

時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
轔々と私の乳母車を押せ

赤い総ある天鵞絨の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり

淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道

相響く詩句を並べる。
「乳母車」◆《はてしなき並樹のかげを/そうそうと風のふくなり》はほぼ似た情景のままに
「晝の月」◆《枯木立の間/蕭條と風の吹くところ》としてうたわれ 

「乳母車」◆《泣きぬれる夕陽》は時間を遡り
「晝の月」◆《行手に浮んだ晝の月》と形を変えたが

「乳母車」◆《遠く遠くはてしない道》だった道のりは、すでに
「晝の月」◆《私の殘りの日よ》と、嘆息するときとなった

これを作風と見て、特に気に留めることもない三好達治読者は多いだろう。だが私には、この詩境は、晩年に至るまで達治が繰り返しうたった同じうた、だと感じられる。
                 令和5年7月     瀬戸風  凪
                                                                                                   setokaze nagi






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