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一般化と個別化

最近色んなところにフィールドワーク的なものに行くようになりました。実際には別にフィールドワークというほど大層なことはしていなくて、ただただいろんなところにボランティアスタッフとして関わるようになっただけなんだけど。

もし、研究するとか卒論書くとかなったらこういうとこでのフィールドワークをもとに書くんだろうなと、教育社会学系の研究室に決まった学生の端くれとしては思うんだけど、個別のケースを一般化してしまうことの怖さを最近感じています。ボランティアは、大抵その日の活動が終わった後に振り返りタイムがあります。今日どの生徒とどんな話をしたのか、何か変わった様子や気になることなどなかったかを、その日のスタッフで共有します。そういう中で、「こういうケースは」とか「こういう子どもは」とかってついつい括りたくなってしまうんです。特に障がいの名前とか家庭の経済状況とか家族構成とかで。でも、現場で子どもに向き合っている、私の尊敬する方々は個々を大切にしていて、決して一般化出来ない「今、目の前にいるこの子に何ができるか」「この子がどう感じているか」を大切にしようとしています。

一般化することに怖さを感じる理由の一つは、向き合いたい相手を傷つけてしまうかもしれないと感じているから。一般化してしまうこととか、これまでの似たようなケースを参照して当てはめることは、役立つ部分もあるだろうけど、そうやって何か(誰か)と一括りにされるのって、少なくとも私はすごく嫌です。ラベリングされたり、カテゴライズされたりすることによって、今切り取られて括られた一部分の「わたし」以外の部分も見えていないはずなのに想像で勝手に補われてしまう気がします。それってその人に失礼じゃないかなって。
一人の人であること、唯一無二の存在であることを否定して単に集団を構成するコマの一つに捉えられてしまう気がするのって、自分はいなくてもいい存在なんじゃないかって思ってしまって怖くないですか?私自身が高校生だった頃、誰かに自分のことを理解して欲しかった一方で簡単に誰かに理解されてたまるかとも思っていたのは、そういう怖さがあったからだと思っています。だから、「よくあるケース」だとか「この障がいの典型的な例」なんて言葉は向き合いたい相手のことをわかった気になっていることを示していて、向き合ってくれてないじゃないかと相手を不安にさせ、傷つけてしまう気がしています。

話は変わって、以前、自分の学部の卒論・修論の中間発表を見に行きました。どれも今の私からするとすごいなという印象だったけど(そりゃそうだ)、次々に飛ぶ先生方からの質問や批判にはもっと唸されました。中でも鮮烈に刺さった言葉として「君のは論文ではなくリポートだ。論文は、ある事象やケースを構造化したり、既存の構造に当てはめて共通点と相違点から批判したりして『論じる』ことが重要だ。君は何を論じている?」というものがありました。このコメントは修論に対してのものだったから、学部生の卒論にここまで求められるのかは定かではないですが、フィールドワークを中心とする研究手法を選んだ以上心に留めておこうと思いました。

この時、個別のケースを個別のまま対応できるのが「実践」で、ある程度一般化したり構造化して明らかにしていくのが「研究」なのかなと感じました。
私は、個別化してその子ども一人ひとりの「今、生きている存在」としてを大切にしたいし向き合いたいと思っているけど(今私が、さして何か戦力になれているかというと全然なれていないんだろうけど)、研究としてそれは成り立たないと言われた気がしました。そういうことがしたいなら「研究者」ではなく「活動家」なのかもしれません。
私の研究室の先生は「どこかできっちり自分の中で現場との距離は必要だよね。中の人になってはいけない。」と仰っています。きっとそれは間違いではないのだろうけど、「中の人」にならないように線を維持し続けるのってすごく難しい気がしています。そんな理性的に動けるもんなんかなぁ。

一般化してしまうことで、向き合いたい相手に真摯に向き合えない、その人を一人の人として見れないのではないか、さらにはそれが相手に伝わって傷つけてしまうのではないかと不安です。でも、個別的に向き合い続け、こんな事例があると取り上げるだけでは研究にはならないようです。
現場との距離を維持しながら、でも一人ひとりに向き合ってその人の声を聞きながら活動し続けられる人を目指したいなんて考えています。


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