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多様な人が集まる場所で〜第24回世界スカウトジャンボリーに参加して〜

私はかれこれ10年以上、ボーイスカウトという団体に所属しています。青少年教育団体であるボーイスカウトがどういう団体なのかについてはまた今度お話するとして、今夏私は4年に一度開催される世界ジャンボリーというものに参加した際に感じたことを書きたいと思います。

世界ジャンボリーは、1920年にイギリスで開催されたのを最初に、4年に一度多くの国のボーイスカウトが集まってキャンプを行い、様々なプログラムを通して交流を図るものです。日本でも過去に2度開催されたことがあり、2015年には山口県で開かれました。
今回の第24回世界スカウトジャンボリーWorld Scout Jamboree;以下24WSJ)は、アメリカ ウエストバージニア州のサミットベクテル保護地区で開催され、152の国と地域から約45000人が集まりました。参加者は14〜18歳と年齢制限があるため、今回私は大会スタッフ(International Service Team;以下IST)として参加しました。

世界中から45000人も集まると、素敵なことも悲しいことも驚くことも起きます。
まして、こんなにも多様な人が集まっているわけです。国も文化も価値観も異なりますし、年齢も受けてきた教育も日頃の身分(適切な言い方かわかりませんが)も全て異なります。

例えば、期間中にあったユニティショーでは、参加者が全員野外ステージに集まり、様々な宗教儀礼の紹介があったり、ライブのようなものが行われたりします。パフォーマーが舞台上で演じている時、観客はどのような様子でいるのが「当たり前」でしょうか。私なら(日本人なら、とは言い切れないのですが)、たとえそのパフォーマーが私の知らない人であっても最後まで聞くもんだと思い、音楽に合わせてのったりしつつもパフォーマーに注目しているでしょう。しかし中には、そのパフォーマーに興味がないからなのか、自分たちで肩を組んで大声で別の曲を歌い始め、踊りだす人もいました。初めてその光景を見た時は衝撃を受け、なぜ近くにいる指導者は注意をしないのだろうと不思議に思いました。しかしその後、あの国の人たちは自分たちで楽しみ始めるのが習性なんだ、と妙に納得して受け入れてしまいました。
出されたものは全て食べるのが礼儀だと教えられてきた私にとって、アメリカでのレストランでいただいた料理は多すぎて平らげることができず、非常に心苦しい気持ちで残すことになりました。足りないよりは多めの方がいいと思ってたくさん出しているのだと言われましたが、その理屈に納得したというよりかは、ここはアメリカで日本とは違う価値観を持った人が暮らしているのだから、私とは違う感覚を持っているんだろうと思うことにしました。
見えている世界も、聞こえている世界もきっと違うんだということも非常に強く感じました。犬の鳴き声が、日本では「わんわん」と表されるのに対し、英語圏では「bow-wow」と表現されることは有名ですね。また、日本では北斗七星をひしゃくと表しますが、スプーンと表す国があったり、鋤と表す国があったりします。

こういったちがいは、24WSJの期間中、こんなにも多様な人がここにいるのだから、と違っていても不思議に思わないし、受け入れられるのです。

同時に、こんなにも多様な人が集まるからこそ、人間同士の化学反応が起こるのだと思います。特に参加者であるスカウトは多感な時期で、同時にまさに価値観が今形成されつつある年齢の子どもです。この化学反応は、「自分と違う」人に出会った時の衝撃によってまず生じます。「自分と違う」人に出会った時、拒絶する人、相手を知ろうとする人、相手に自分の価値観を押し付ける人、相手に自分のことを知ってもらおうとする人、様々な反応を示す人がいます。また、自分にとっては何気ない当たり前が、相手にとっては天地がひっくり返るような「ちがい」であったりと、思わぬところで発生するのもまた、面白い部分だと言えます。
「自分と違う」人に出会うことによって「自分」を知ることができるというのはよく言われる話ですが、そこで起きる相互のやり取りは双方に影響を及ぼします。働きかけがない無関心でさえもまた、相手に影響をもたらす反応の一つになります。

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さて、ここで「こんなにも多様な人と触れ合うことで大きな影響を受け、考え直させられる良い経験となりました」と締めくくってしまってしまうのは簡単です。多くの参加者がきっとそんな感じで感想を述べるでしょうが、なぜそう思ったのでしょうか。

そもそもこんなにも多様な人とは、どのような観点からみてそう思うのでしょうか。今回の24WSJに関して言うと、出身の国が違うことが主な多様性でしょう。異なる肌の色や目の色といった、見た目の多様性もあったでしょう。この24WSJで自分と合わない感覚や考えを持つ人に出会った時、国も違うし文化も価値観も違うから自分と違って当然だ、と、ある種諦めに似た納得をした人が多かったのではないでしょうか。

その納得は、どうしてもっと身近なところではできないのでしょうか。クラスの中で他の人と同じことができなかったり独自の感性を持っていたりする子に攻撃をしたり、好きや嫌いの対象が自分と相容れなかった時に相手を詰ってしまったりと、身近なところにある「ちがい」はあまり受け入れられていないように感じます。納得させる理由づけが、「国が違うから」であるなら、日本国内で特定の国の人に対して未だに冷たい目が向け続けられることもないでしょう。


どうして、に対する応えは民族的な話だとか心理的生物的観点からだとか様々あると思いますが、私はもっと感情的にどうして、と言いたいです。自分と違う人間なのだから、違う考え方を持っていても違う価値観で生きていても違う生活の仕方でもいいじゃない、これまで受けてきた教育がどうとかその地域や国の文化がどうとか、その人を形作ってきた様々な要因に理由を求めるのではなく、もっとありのままにそのちがいを受け入れたらいいじゃない、と思ってしまいます。ふーん、あなたはそうなんだ、くらいの気持ちで自分と相手のちがいを受け止められたら、この24WSJのような非日常的空間以外でも他人とのちがいを認められるようになるのではないでしょうか。

自分と違う人がいて当たり前だという感覚は、こんな大きな活動に参加している間だけでなく、日々の自分の生きている場所でも忘れないようにしなければと感じました。





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