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もうすぐ始まる「わたしの日常」への恐怖

なんだかわからないけど、数日前から気分の浮き沈みが激しくなり、それを誤魔化すのに必死でただの「なんか騒がしいやつ」を演じてきましたが、そろそろ限界がきそうです。今日のは長くなりそうですが、ここ最近の私の生活を振り返りながら私の中に棲むわたしについて書きたいと思います。

前回話した私の中のわたしについてはこちらから。

さっき、「なんだかわからないけど」と書いたけど、本当は原因が少しわかっています。

コロナによって、私の日常は様変わりしました。
一言で言うとこの2ヶ月間は人生の休暇期間みたいなものでした。

これまでの私の大学生活は、毎日授業以外に2-3件の用事があり、1日あたりのウォーキング量は平均7kmであり、月ごとの平均睡眠時間は4.5-5.5時間/日でした(私のiPhoneが言うには)。実家暮らしの時は家に帰りたくないと予定を詰め込み、家は風呂と寝る時間を過ごすためだけの場所になっていました。一人暮らしを始めてからは、今までのサークルに加えて週3のバイトと自炊をスタートし、新たにボランティアに参加するようになり、週末には地元に帰ってボーイスカウト活動に勤しむ生活でした。
もっと振り返るなら、高校生活も同じようなもので、部活と課題にそれなりに忙殺されそれなりに遊び、あくまでスケジュール帳はびっしり何かが詰まっていました。
そのせいか、高校生の頃から、何も見なくても直近2週間の予定は全部言えたし、基本的に何も予定が無い日は月に1回あれば十分でした。


明日、何をして生きようか。
今日のごはん、何作ろう。

そんなことを考えられる日が来るとは思ってもいなかったし、これまで別に求めていませんでした。


今年5月のウォーキング量は1日あたり平均1.1km。
睡眠時間は1日あたり平均6.5時間。
お酒もほぼ飲まず、健康的な自炊生活。
みんなが忙殺されているらしい課題も私の授業にはそんなになくて、まあ週に4時間も取り組めば余裕。
オンライン授業こそあれど、一番大切ででも一番しんどい実習(高校でのフィールドワーク)はなし。
バイトもなし。ボーイスカウトもなし。大学構内立入禁止。
だから外に出る理由がないし、詰める予定が無い。


明日、何をして生きようか。
そんな選択ができる日々。

今日のごはん、何作ろう。
1週間分の献立を立て切って買い物をしたり、作り置きおかずを用意したりする必要のない日々。

もはや、半年前の自分が何故生きることができていたのか、今思うと不思議でなりません。

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私はこの穏やかに時間が流れていく生活にすっかり慣れてしまいました。
インスタントじゃなくてちゃんと挽いて淹れるコーヒーは美味しいということを知りました。
その日の気分で、今日のごはんを決められることの幸せを知りました。
目的地を決めずに歩く散歩はわくわくすることを知りました。
夜におつまみを手に映画を観ることの楽しみを知りました。
誰にあげるわけでもないミサンガを編むことの満足感を思い出しました。
あほらしい動画を眺めることの面白さを思い出しました。
オンラインの麻雀ゲームって時間を溶かすことを思い出しました。
お布団と机を行ったり来たりする日があってもいいんじゃないかと思えるようになりました。
毎日何かを生産したり、成長したりしなくても別にいいんじゃないかと思えるようになりました。

私の中のわたしの話をするなら(「私の中身;わたし」参照)、今まで生活の基軸には外交的で活発なAがいました。で、後ろ向きでおとなしめのBに変わる瞬間にしんどい思いをする。そしてまた、徐々にAが台頭してきてスケジュール帳が黒さを取り戻していく。B主体の日々は、A主体である期間よりずいぶん短く、そしてまた、B主体の生活をキープすることは私にとって難しいことでした。Aが出てきちゃうと、どうしても勝手に体は動いてしまうし、新しくやりたいことが出てきてしまうので。
それから、Aの性格としてもう一つ、何かしら生産性のあること、意味のあることをやらねばという使命感を持っていたことがわかりました。何かのためになることばかりを詰め込まなきゃと感じ、純粋な心で小説やゲームを楽しむことができなくなっていました。

コロナは、私の生活に大きく影響を及ぼしました。
外出を制限されたことによって初めて、A主体でありながらB主体の頃のような生活をすることになりました。しかしBのように無気力で何に対しても肯定的になれないわたしではなく、あくまでも前向きで活力のあるAが主体であると、時間がゆっくりと流れる世界が非常に豊かなものに感じられるようになりました。私は、この生活を恒久的に手に入れたいと願うようになっていました。


しかし私は冒頭で、「この2ヶ月間は人生の休暇期間みたいなもの」と述べました。いつに間にか衣替えもすっかり終わった6月になり、もうすぐバイトが再開し実習がスタートします。緊急事態宣言も解除されたんだし飲みに行こうよという声も頂くようになりました。ポストコロナが「元どおり」の生活にはならないと散々言われていても、でも少しずつ緊急事態から脱し「元の生活に戻ろう」としています。休暇というのは、日常からの脱却です。すなわちこの2ヶ月の生活は特殊な非日常であり、恒久的なものではないのです。

数日前からの気分の浮き沈みは、私の中のAとBとの闘争の表れだと考えています。穏やかでもそれなりに充実した日々を送っていたのに、それに満足できていないAがうずうずしています。一方、いつもなかなか私と過ごすことのないBというわたしが、中心に据えられる生活をしてきた中で傲慢さを持ちAというわたしを押しのけ、この予定のない、人とあまり関わらない生活の終焉に抗おうとしています。
一方で私を外へ連れ出そうとし、一方で私を家の中に安住させようとする。
一方で忙しなくタスクをこなす日々を取り戻そうとし、一方で日々を噛み締めるような日々を手放したくないと願う。

私の中のわたしは、いつだってほんと同じことを言わない。
これからの私の生活はどうなってしまうんだろう。
いっそ穏やかな生活なんて知らなければ良かった。
味をしめてしまったが故に、自分の生き方を見つめ直さなくてはならなくなってしまった。
日々タスクに忙殺されていたら、こんなこと考えずにすんだのに。
穏やかな生活を強いられた先が葛藤だなんて、知らなかった。

コロナ禍が開けようとしている今、私の中のわたしの闘争は幕を開けました。

https://twitter.com/@potato_kataware


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