「現代アート」は去勢された価値

マルキド・サドによると、売春婦を金で買うよりも修道女を強姦する方が欲望の質量が大きいという。
クロソウスキーはその欲望原理を経済活動の基本原理だとし、さらに欲望は模倣され投影され夢想されるという。(ざっくりとした理解)

資本主義社会における「価値」とは、消費者を欲情させるものである。(食やインフラなど料金体系がはっきりしているのは別)

価値のないものが価値に転換される時のその瞬間こそエクスタシーがあるもの。

資本主義社会で生まれた「現代アート」は価値の扱われ方において経済活動にほぼ等しいが、美術館に置かれ、価値が担保された上でのアートの価値とは去勢された欲情なのではないか。

美術史を知れば現代アートがわかると、したり顔で美術の玄人風味が言う。
赤本を解いておけば受験本番でも迷わない!という喜びと何が違うのだろう。

知識人とされる階級の単なる共通言語であるから、知っておくことでまるで自分の階級が上がったような浮遊感が味わえるというのはあるだろう。

それをわかった上でも、人間による手仕事気迫が感じられるアートには"欲情"とは似て非なる好意的な感情を抱く。

経済活動の原理だけでは割り切れないアートの価値はいまだに探索中。これも欲情の模倣なのかもしれない。

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