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批評 夏目漱石と“ちいかわ”

 夏目漱石の書いた作品の中で『野分』は中期の作品になる。あらすじを現代風につづると、道也先生という元教師の文筆家に高柳君という高学歴無職の貧乏陰キャが惹きつけられていくという話だ。

 読んでいると、道也先生の人物造形がどんどんと変わっていくことに気がつく。最初にこの人は社会不適合者として読み手の前に現れる。赴任先で衝突を繰り返し、行った先々で地方の有力な金持ちに対して遠慮なくディスをかまし、爪弾きになり職を追われて妻にもすっかり落胆される。

東京に戻ってきてからは、教職を捨て細々と出版社のバイトで食いつなぐことになる。収入は少なく安定せず、夫婦を養うにはまったく足りない。貧乏に困りながらも家計のやりくり(つまり借金)はすべて妻任せだ。小言を言われても現実的な対策はせず、自分のための原稿を静かに書き続ける。控えめに言っても読者に好かれるタイプじゃない。

 ところが、高柳君、中野君という2人の青年が登場するとガラリと様子が変わる。中野君は極太実家で恋人もいるし、すでに文才まで世間から評価される「持っている」人だ。対して高柳君は貧困ワナビー。大学を出たけれど職につかず下訳のバイトでなんとか食いつなぎながら、文学で身を立てたいと願っている。ここから実質的に彼の視点から語られることになる。

 道也先生と違って、高柳君はいつか余裕ができたらちゃんとした文章を書いてみよう、みようと思っているけど、それをなかなか始められない。彼は何も持っていないからこそ、何かになりたいと願っているちょっと鬱屈した青年で、自然と感情移入できる人物だ。

食事にも困り服はボロボロで、家族はもっと貧しい母親が田舎にいるだけだ(母にはちょっと仕送りをしている)。実は高柳君、卒業したのは帝大(東大)という超エリートなので、望めば中学や高校の教職が簡単に手に入った。けれど、そうはせずに「作家になりたいけど生活もしなきゃだし……」とぼんやりしながら日々を過ごしている。

 高柳君は"ちいかわ"なのだ。“ちいかわ”といえば、簡単に説明すると純粋でいい子なんだけど賢くはない子供のようなキャラクター群である。ふわっとした高柳君の出現で、逆に道也先生という人物の位置が新しく定まるようになる。逆の意味の言葉を知ることで元の言葉の意味がはっきりするように、道也先生は高柳君の存在によって“先生”となる。

 誤解をしてほしくないのは、私達はもれなく全員“ちいかわ”なのだ。自分が詳しく知っていること以外の場面では誰だってオロオロと右往左往する“ちいかわ”となりえる。どれだけ経験しても学んでも、どれだけ賢くても才能があっても、全てのことに詳しくなることはできない。“ちいかわ”は私達の脆弱性だ。大なり小なり私達はそういう弱い一面を持って暮らしている。

 では高柳君と道也先生はどこが違うのだろうか? 目標だったり、「中身がある人」というような内実の差だろうか? それもあるだろうけど一番大事な所はそこじゃない。高柳君は自分が“ちいかわ”だと気がついていない。自らの輪郭についての意識がないのだ。対して道也先生は自らが”ちいかわ”であることを知っている「ちいかわの知」を持つ。

 「批評とは臨界、つまり限界のこと」とは西部邁の言葉だ。批評とは限界や輪郭を見出す行為なのだ。そこで初めて限界から自由になる可能性が現れる。自らの“ちいかわ”に光を当て理解することは、正しい意味で批評を行うことである。それは「私ってこういうキャラだから」と自分で決めた枠に引きこもることじゃない。朝に咲き夕に萎れる有限の生を自覚し、そこから歩みだすためのものだ。だから道也先生は自分の仕事を黙々と進める。彼は批評精神を持っている人として新たに定義が宣言される。

 ところで、道也先生はそんな現代の悩める若者の相談に応えているうちに、結果的に口説いてしまう展開になる。

「高柳さん」
「はい」
「世の中は苦しいものですよ」
「苦しいです」
「知ってますか」と道也先生は淋し気に笑った。

夏目漱石『野分』

 なんだか道也先生がやたらとかっこいい。これが高柳君に刺さりまくる。

高柳君はまさかと思った。障子にさした足袋の影はいつしか消えて、開け放った一枚の間から、靴刷毛の端が見える。縁は泥だらけである。手の平程な庭の隅に一株の菊が、清らかに先生の貧を照らしている。自然どうでもいいと思っている高柳君もこの菊だけは美しいと感じた。

夏目漱石『野分』

 道也先生からすると、別に自分のフォロワーが欲しい訳ではない。この場合では、自分の声を聞いて高柳君が目覚め、彼の文学の道を進むことを望んでいるのだけど、結果は自分の崇拝者を生んでしまう。道也先生はこの危うさに気が付き、ズレを軌道修正しようとするのだがうまく行かない。

道也先生は高柳君の耳の傍へ口を持って来て云った。
「君は自分だけが一人坊っちだと思うかも知れないが、僕も一人坊っちですよ。一人坊っちは崇高なものです」
 高柳君にはこの言葉の意味がわからなかった。
「わかったですか」と道也先生がきく。
「崇高――なぜ……」
「それが、わからなければ、到底一人坊っちでは生きていられません。

夏目漱石『野分』

 偶然出会った機会に道也先生は「一人坊っち」で耐えることを勧める。暗に、あなたは私といることで満足してはいけないと諭す。高柳君には自らが弱くか細い“ちいかわ”であることを理解して、ひとりで歩きだして欲しいと願っている。同時に、他ならぬ自分の存在が彼をその場所に縛り付けてしまう可能性を恐れている。しかし高柳君はその言葉の意味が理解できない。このすれ違いは残酷なほどそのまま残ることになる。

 後半の道也先生の講演は本編のクライマックスだ。「いい感じの内容を演説して、いい感じに盛り上がる場面を書こう」と思ってその通りの文章が書けたなら、その人は作家として十分な腕力があるだろう。夏目漱石はさらりとした手触りで仕上げる。聴衆の呼吸に合わせ、緩急をつけ、対話を楽しむように語る道也先生を見ると、最初のとっつきにくい性格してるな、という評価が完全に裏返る。もちろん聴衆に混ざって聞いていた高柳君はすっかり心酔してしまう。

諸君のうちには、どこまで歩く積りだと聞くものがあるかも知れぬ。知れた事である。行ける所まで行くのが人生である。

夏目漱石『野分』

 高柳くんは自らが”ちいかわ”であることを最後に理解する。肺病を病み、いよいよ追い詰められた時、中野君に助けてもらってようやく自分の仕事に取り掛かろうとする。しかし、療養のため温泉地へ旅立つ前に別れの挨拶をしようと家を訪れると、先生が借金の催促を受けている所に出くわす。奇しくも先生に必要な金額は懐中にある額と同じだった。迷うことなく高柳君は唯一の友が用意してくれた大金を全て先生に捧げる。

 こうして失敗という亀裂を残し『野分』は幕を閉じる。高柳君の目は澄んでキラキラと輝いているだろう。”ちいかわ”は彼が見つけた安住の地だ。心休まり落ち着ける場所だ。自分の仕事はゆっくりと忙しくない時にやればいい。もう焦る必要はない。それより先生の方が大事だ……

 想像になるけど、漱石の周りにも同じことが何度もあったんじゃないだろうか。有望な青年が自分の元を訪れ、次々と満足しながら“ちいかわ”になっていく。“先生”とそれを慕う人、という関係に横たわる力場の危険な作用を目の当たりにしたのではないだろうか。

自分の元に来なければ、君はもっとすごい文学をやることができたかもしれない、今となってはどうすることもできないが、という言葉を本人を前にして飲み込む。平凡で目立たない失敗がこちらを見て嬉しそうに笑っている。“先生”であることを引き受けることは、失敗に対しての責任のわずかな部分だけを記憶し、残りの責任を全部捨ててしまうことではないだろうか。この関係ははじめから免責されている。見届ける義務もない。それでも、割り切れないものが腹に積もってゆき、目の奥には諦念が漂う。そんな時は彼もまた「淋しげに笑った」のではないだろうか。


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