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想田和弘監督 観察映画

最近気になっているものを紹介します。
映画作家の想田監督なんですけど、映画「精神」を見てどっぷりはまってしまい、続けて「演劇1」「演劇2」「選挙」「選挙2」「Peace」「港町」「THE BIG HOUSE」の8作を見て、著書「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」を読んだので、内容をまとめておこうと思います。

ドキュメンタリーの魅力=存在の不確かさ、はかなさ

「作り手の予想や思惑が生の現実の迫力を前に粉々に砕け散り、心底裏切られ、既存の世界がドロドロに溶解してしまったときにこそ、輝き始めるもの」

観察映画

彼の作る映画は一般的にはドキュメンタリーというくくりで、特に、「観察映画」と呼ばれるようです。
観察映画とは、「作り手としての自我の介入が最小限」の映画。
「撮影前に台本を作らず、目の前の現実を撮影と編集を通じてつぶさに観察し、その過程で得られた発見に基づいて映画を作るドキュメンタリー制作の方法論である。出来上がった映画には、ナレーションや説明テロップ、BGMなどを基本的に使用しない。」(同著書より)

ドキュメンタリー映画ってそういうものじゃないの?と思ってしまったのですが、実はそうではなくて。テーマを決めて、それに合わせて撮影する対象を決めていく、テーマありきの制作になりがちみたいです。監督は著書の中で、そういった企画を決めて作るドキュメンタリーは、テーマが最上にあるので、被写体はテーマのための道具になってしまう、と述べています。
私が今まで観察映画みたいなものだと思ってみていたNHKの密着系の作品なんかのほとんどが、予算決定のためにテーマや脚本や企画を作って上からの要求をのみこんだ作品としてのドキュメンタリーだったのだろうと思います。

想田監督はもともとはそんなテレビ・ドキュメンタリーの制作を行っていて、その「台本至上主義」と、「わかりやすさ至上主義」に違和感と反省を感じたことから、この観察映画の制作を始めたそうです。
「台本至上主義」「わかりやすさ至上主義」の弊害は簡単に言うと、台本を作ったがゆえにその細部に縛られ、台本通りに進まない現実を作品から排除しようとしてしまうこと、テロップやナレーションで視聴者に状況を説明しすぎて、本来映像が持つ多義性が消えてしまうこと、です。
何も言わなければ見る人の中で様々な可能性に膨らんだはずの情景が、言葉によって縛ることにより、1つの定義を帯びてしまうこと、音楽によって特定の方向を向いてしまう可能性があるということです。

ドキュメンタリー≠客観的事実

ドキュメンタリー映画であろうとも、それが主観を持つ一人の人間によって作られる限りは、どの場面を、どこで、どんな風に切り取るか、に、確実に作為が現れます。また、偶然の出会いやタイミングによっても作品の色は変わる。さらに、映画作家に作ることのできる映画は、撮影者の存在を含む現実のみです。これらのことを考えると、完璧に客観的なドキュメンタリーは存在しない。

かといって、ドキュメンタリー=フィクションかといわれるとそれは微妙。ドキュメンタリーが作品として面白いのは、それが実在する人物や事象であるということが前提にあるから。
フジテレビの未開のオセアニアについての「ドキュメンタリー」や、「イッテQ」でやらせ疑惑が騒がれたのは、視聴者の「実際にこんなことがあるのか」という驚きをすべてフィクションに塗り替えたから。あんなもの現実の記録でなければ何の価値もないし、「未開の地で矢理みたいなものを投げてくる現地人」なんて設定、面白くなさ過ぎて誰も作らない。ということなんだと思います。

ドキュメンタリー作家は正義の味方か?

マイケル・ムーア監督の作品や、Netflixによくある食品についてのドキュメンタリーなんかを見ると、そこには確実に確固たる「正義」があって、例えば「トランプは悪」とか「菜食主義は善」とか、大体が善悪の二項対立です。そういうのって制作者は「正義の味方的な」ポジションで、あらかじめ「正義」を決めてから作ってると思います。そういう映画、プロパガンダ感が出るし、苦手な人も多いと思うけど。

想田さんは作家には正義の味方にも、加害者にもなる可能性があると述べています。実在する人物が本当の気持ちや本当の表情を見せるほどにその作品は面白くなるけど、同時にその人を傷つける可能性も高くなる。

個人的に、物事を何かと二項対立で、善悪、医者と患者、加害者と被害者、見たいに語るの、そろそろやめたほうがいいなと思っていたので、想田さんのこの考え方はとても賛同できた。差別はいけないと言っている人の顔が多数派の顔だったり、そういう見方になる私にも問題はあるけど、確実に「どっちか」っていう考えが蔓延している。
監督も、被写体も、観客も、みんな、善であり悪でも可能性を含む存在であるということ、忘れちゃいけないと思います。

結局現実が一番面白い

想田監督の作品にはそういったメッセージがほとんどなく、ただ流れるような日常、現実を納めます。たまに起こる奇跡のような現実が、「人生は小説よりも奇なり」と教えてくれる。社会福祉の不足について語る人の横で、同じく社会福祉の未来についてスピーチする首相の声が流れたり。

小学校の道徳の授業みたいに、教科書に用意された道徳テーマに向かって、用意されたプロセスに従って進んでいくような映画、こちとら大人ですから、いらないのよ。
一方で、現代アートはあまりにテーマを提示しなさ過ぎて受け身。見る者の思考が広がらなければ意味ないのに、「自由な解釈」の押し付けを感じることすらある。
想田監督の作品に感じたものは、見るものを信じる姿勢と、現実や被写体を尊敬するまなざしだった。アートでも小説でも映画でも、見るものと作者の間に信頼関係や愛情の関係がなければ何も生まれないような気がしてきた。

作品紹介

第1弾 選挙(2007):監督の東大時代の同級生「やまちゃん」が川崎市議選に立候補する過程を撮影

第2弾 精神(2008):岡山の精神病院で過ごす患者たちを撮影

番外編 Peace(2010):岡山の監督の義理の両親のもとで、野良猫たちが受容しあう過程と、義理の両親の仕事である障害者や老人を支える仕事を撮影

第3弾 演劇1・2(2012):劇作家平田オリザとその劇団アゴラに密着

第4弾 選挙2(2013):やまさんのその後、再び選挙に立候補する様子を撮影

第5弾 牡蠣工場:まだ見てません

第6弾 港町:岡山の港町で、監督の義理祖母の過ごした町でもある牛窓で、漁師のおじちゃんやおしゃべりなおばちゃんの日常を撮影

第7弾 THE BIG HOUSE(2018):アメフト最大のスタジアムThe Big Houseの様子を撮影。

第8弾 精神0(2020):上映中。見に行きます。

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