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「コンパートメントNo.6」が教えてくれた、大切なこと

スマホがなかった90年代のロシアを舞台にしたフィンランドのユホ・クオスマネン監督の作品。「オリ・マキの人生で最も幸せな日」に続く2作目で、2021年のカンヌ映画祭グランプリを受賞した。ヒューマンドラマ、ラブロマンス、ロードムービー、どんなジャンルにも入れがたい、その時代の空気感や、人と人の心の交流をていねいに描写した宝石のような映画だ。

まずこの映画は、ただ何も考えずに見ていて、その世界に100%同化・没入できる、という映画というメディアの究極的な目的を達成している。列車という狭い空間の中でカメラの存在感を殺すことが、いかに難しいか。しかし「コンパートメントNo.6」は、その難題を易々とこなしている。そのレンズは人間の感覚と同じ、窮屈なコンパートメントや通路に入った感覚を忠実に再現しているし、不満や期待をはらんだ人物の微かな視線を見逃さない。それだけでも、もうすごいことなのだ。

そして、その映画の技術的な苦労の上に繰り広げられ最大限に生かされるドラマがある。

スマホがなかった時代、たまたまその場所にいあわせた他人同士の間には、偶発的にいろんな人間関係が生まれていた。例えば、この映画では、列車のコンパートメントに乗り合わせたある男女が、最初はお互いにいけすかない相手だったのが、だんだんうちとけ、親密になっていく様子が描かれている。そこには微かな恋愛感情に似たものもあるかもしれないが、たまたま男女だから同性同士にはない化学反応が起こった、その微妙なやりとりが、まるでドキュメンタリーのように細やかに描写されている。その瞬間がいつまでも終わらないでほしいと思う、上質のワイン、というよりは、何か、おいしい爽やかな飲み物でも味わっているかのようなステキな映画なのだ。

ひと昔前は、旅をすると狭い列車の中で、どうしても前の人や隣の人とのやりとりが生まれた。会話だけではなく、他人がたてるいびきとか、ためいきとかといった雑音から、足組みや食べたり飲んだりする、その仕草や音、こちらを見る視線、窓の外をながめる横顔、そういったものすべてと向き合わざるをえない。もちろん、本を読んだり、ウォークマンで音楽を聴いたりして自分の世界にこもることもできるが、それはコンパートメントにいあわせた人全員がそうしているわけではないからこそ、誰かのおしゃべりや、問いかけや、吐息などで容易に中断され、人と人との間には、一期一会だけれども、なんらかの関係が生まれざるを得ない状況があった。

でも今、全員がスマホを持っている時代では、人々は一様に画面に目を落としている。イヤホンをしていないかなと思っても、耳の中にはちゃんと小型のワイヤレスフォンが詰め込んであって、目は画面を注視している。つまり、目の前にいる他人をシャットアウトしていて、「忙しいです。声をかけないでください」と言っているのだ。

画面の中に、どんな別世界があるのだろう?それはゲームだったり、SNSでの他人の話や写真だったり、友人とのチャットだったり、仕事上の情報のやりとりだったりするのだろう。それは目の前の存在しないも同然の他人よりも、きっと興味深いに違いない。彼らは、その二次元の世界、想念の世界、デジタルの世界で、人や自然や物事、つまり世界とつながっているのだ。

そのつながりはあくまでも頭の中で想念的に存在するつながりであり、デジタル機器を通して聞こえる音でしかない、つまり、有機的ではないのだ。匂いや不快感も伴わないし、自分には耐えられない雑音や音もない、目の前に居合わせたおしゃべり好きの人の不躾な質問や、自分が興味のないおばさんやおじいさんの個人的な問いかけにいちいち返事をしなくてもいい、とても自分に都合のいい、自分が好きな世界、自分の関心のある事象だけが、そこには広がっているのだ。

面倒なことが偶発的に起こらないデジタルの世界にひきこもったまま、人は移動する。さらに、職場へいっても、家族や友人といても、スマホやパソコンがそこにあり、それをいつもお財布やコーヒーのように片手に持っている。そこにデバイスを置いていることが全員のコンセンサスになっているため、会話を長続きさせる努力もしなくていいし、実際、会話がヒートアップしてみんながスマホの存在を忘れてしまう瞬間もない。

「Compartment No.6」が思い出させてくれたのは、そんな頭でっかちの、情報にどっぷりつかった生活スタイル以前の、電話一本をかけるにも公衆電話を探して、コインを手に電話をかけにいく、という物理的な行為をしないといけなかった時代の人間同士のやりとりが、予測不可能だったゆえに、どれだけわくわくするものだったか、ということだ。その感覚は、デジタルの中に生み落とされ育った世代には本来わからないかもしれない。でも、アナログ世代にとっては、その予定調和を超えた瞬間こそ、生きていることを実感できる瞬間だったのだ。

50代後半の私は30代前半くらいまで、そういう生活を送った。意識の中に、まったくSNSもスマホもない、ただ100%目の前の現実とつながっている。それがいかに幸せなことだったのかを、この映画を見て再確認させられた。

今、意識の半分は、常にバーチャルな世界にある。誰かと話していても、そのテーブルの上にある携帯が光ると、それはSNSのいいねだったり誰かのチャットだったりして、そこに意識が削がれる。満開の桜をどれだけの人がその写真を撮ってインスタにあげることをまったく考えないで、今、みているか、楽しみ、愛しんでいるのか。自分もその習慣、惰性、条件反射にどれだけ持っていかれているかを、「Compartment No.6」は教えてくれる。



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